「重たい雪」
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    2017.3.22

    朝から重たい雪が降り続けています。

    パートに出かける妻のために

    車の雪を下ろしましたが

    重いのなんの

    片手でできなくなってきて・・・

    五十肩かな・・・

     

     

     

     

     

     

    美しい

     

     

    雪の重みで

    垂れ下ってきた松の枝

     

    聖書のみ言葉の

    重みを受けて

    私の心も

    へりくだらされて

    歩みたい

     

    朝食

    ご飯おかわりしてしまい

    おなかの重みで

    気力が落ちないよう・・・

    励みます

     

    神は雪に向かって、地に降れ、と命じ、

    夕立に、激しい大雨に命じる。

    (旧約聖書 ヨブ記37:6)

     

    ヒソプをもって

    私の罪を除いてきよめてください。

    そうすれば、

    私はきよくなりましょう。

    私を洗ってください。

    そうすれば、

    私は雪よりも白くなりましょう。

    (旧約聖書 詩篇51:7)

     

    (クイズ)

    罪で黒ずんだ私たちの心を

    雪よりも白く漂白する力を

    もっているものはなあに?

    (答えは、ブログの最後に!)

     

    しかし、もし神が光の中におられるように、

    私たちも光の中を歩んでいるなら、

    私たちは互いに交わりを保ち、

    御子イエスの血は

    すべての罪から私たちをきよめます。

    (新約聖書 1ヨハネ1:7)

     

    こたえ:御子(みこ)イエスの血

     

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    神に出逢う「釧路湿原」
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      2017.3.20春分の日

      帰省中の長男坊と

      達古武湖にて

      湖面は凍りついて一面真っ白

       

      シャーベット状の

      達古武湖

       

       

      塘路湖

      こちらも真っ白

       

       

      塘路湖「川の駅」

       

      細岡大観望

       

      故郷に戻るたびに

      きまって

      釧路湿原を訪れる息子

       

      「湿原の自然を見ると、自分が抱える問題が

      とてつもなく小さく見えてくるね」と息子

       

      正面に見えるのが阿寒富士と雌阿寒岳

       

      釧路湿原で、確かに

      創造主なる神に出逢ってまいりました!

       

      (湿原クイズ)

      釧路湿原の雪面に

      見られる次の(1)〜(3)の足跡の正体は?

      (答えは最後です)

       

      (1)

       

       

      (2)

       

       

      (3)

       

      主をほめたたえよ。

      すべて造られたものたちよ。

      主の治められるすべての所で。

      わがたましいよ。主をほめたたえよ。

      (旧約聖書 詩篇103:22)

       

       

                     

      クイズのこたえ

      (1)エゾユキウサギ (2)エゾシカ   (3)キタキツネ

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      「だから、大丈夫!」
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        拙ブログをご覧頂いて

        おいで下さった皆さんには

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        無料プレゼントいたします!

         

         

        クイズで〜す!

         

        1.イエス・キリストの「     」をお祝いするのがクリスマス

        2.イエス・キリストの「     」をお祝いするのがイースター

         

        答えは、このブログの最後にありま〜す!

        ここにはおられません。

        前から言っておられたように、

        よみがえられたからです。

        来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。

        (新約聖書 マタイの福音書28:6)

         

        クイズの答え⇒1.誕生、2.復活

         

         

         

         

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        「人はなぜ、死ぬのでしょう?」
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          「人はなぜ、死ぬのでしょう?

          それは、この世に生まれてきたからです。」

           

          午後6時半からのお通夜

          午後7時、読経を終えた

          ご導師(浄土真宗)が

          法話の中で

          お釈迦さんのお話として

          上記の言葉を引用されました。

          続けて、

           

          「死んだら、みな、きれいな蓮の葉の上に立つのです。」

           

          そう語られていました。

           

           

          ご導師は

          「私もね、70を過ぎて

          もう先が長くないと思います。

          つい最近病気になってねえ。

          ある病院の相談室へ行ったんです。

          そしたらカウンセラーの方にこう言われたんです。

          『手術できる体であることを感謝しては

          いかがでしょう。』と。

          ああ、そうだなあ

          感謝しなきゃなあ、と」

           

          とても平易な言葉で

          会話調でお話されていました。

           

          私の家系も代々

          浄土真宗ということもあって

          私はクリスチャンですが

          ある種の親近感を覚えます。

           

          昨晩、教会員Aさんの

          おしゅうとさん(92歳)の葬儀でのこと

           

           

          おしゅうとさんの生前

          Aさんは、おしゅうとさんの病室へ

          よくお見舞いに行かれては

          主イエスの福音を

          伝えつつ

          ベッドの傍らで

          真心こめてお祈りされていました。

           

           

          おしゅうとさんは

          クリスチャンであるAさんの

          献身的な

          看病をありがたがり、

           

          ある日、

          Aさんの招きに応じて

          主イエスを

          救い主として

          信じる信仰の告白へと

          導かれました。

           

          「人間は皆一度死ぬことと

          死後に神の前で

          さばきを受けなければならない

          けれども

           

          神の前に自らの罪を告白し

          主イエスを信じるならば

          主イエスの十字架に

          よって罪を赦されて

          永遠のいのちにあずかることができること」

          を伝え聴くことができ

          しかも信じることができたのです。

           

          ここでいう「永遠のいのちにあずかる」とは

          「天国のいのちに至る」と言い換えることが

          できるでしょう。

          「死んでも天国へ行ける」

          「天国で復活の体が

          与えられる

          そう言い換えることも可能でしょう。

           

          聖書では

          「人は心に信じて義と認められ

          口で告白して救われる。」

          (新約聖書ローマ書10:10)

          と約束しています。

           

          キリストを信じた人の魂は

          たとえ、葬儀が仏式であっても

          たとえ、洗礼を受けたり

          教会の礼拝に行くことが

          かなわなかったとしても、

           

          信じた瞬間

          主イエスのもとへ行くことが

          確証づけられています。

           

          私はAさんのおしゅうとさんに

          生前お会いすることは

          かないませんでしたが

           

          葬儀で

           

          BGMが流れる中

          故人のプロフィール画像と

          人生の歩みの紹介アナウンスを

          聴きながら

          「ああ、天のみ国で

          この方にお会いできるのだな」

          感慨深い思いが与えられました。

           

          おしゅうとさんは

          92年前

          国後島で生を受けられ

          戦地へのご出兵も経験されたそうです。

           

          このような先人の方々の

          ご苦労話を

          ぜひうかがいたかったものです。

           

          今日、多くの人が

          「なぜ●●で死ぬのか?」という類の

          問いを多くする一方で

           

          冒頭でご導師がご紹介下さった

           

          「人はなぜ死ぬのでしょう?」

          「死んだら、おしまいですか?」

           

          という根本的かつ、

          はるかに重要な問いについては

          避けながら

          生活しているように

          思えてなりません。

           

          もし私がそのように尋ねられたら

          どうお答えするかなあと

          思いました。

           

          そう質問される方が

          おかれている状況を

          配慮しながらし

          語り口は

          変えるとは思いますが、

           

          「人はみな生まれながら、罪があるので

          死ななければならないのですよ。

           

          「死んだら、それでおしまいではなくて

          人間には一度死ぬことと死後に

          さばきを受けることが定まっているのですよ。

          天国と地獄があるのですよ。」

           

          そのような

          お答えになるかなと思います。

           

          (原始)仏教とは

          「人間とは死ぬものなのだ」

          そのことを受容することを

          悟りとして

          強調する点において

          宗教と言うよりは、

          むしろ哲学の範疇に入る

          というのが私の今のところの理解です。

           

          ただ仏教の中でも

          とりわけ「浄土の教え」は

          「罪深い者が

          ただあわれみのゆえに信仰によって

          救われる。」と言う点において

          聖書信仰との類似性がある

          ともいえます。

           

          無数の仏の中から

          ただひとりの仏、

          「阿弥陀仏」だけを

          無数の仏国土からただ一つの

          「西方極楽浄土」だけを

          選び取る。

          そこには

          「唯一の救い」に対する

          憧憬の思いを

          垣間見る思いがいたします。

           

          聖書では

          神は唯一です。

          神と人との間の仲介者も唯一であって、

          それは人としての

          キリスト・イエスです。

          (新約聖書 1テモテ2:5)

          と明言しています。

           

          親鸞聖人の直系の蓮如上人の

          18代目の末裔にあたる住職、

          亀谷凌雲氏は

          元浄土真宗住職でしたが

          キリストと出逢い

          キリスト教牧師となります。

           

          亀谷氏は

          「阿弥陀を実質化、

          実体化したものが

          イエスである」

          と述べています。

           

          亀谷氏は

          「長い間

          救い主阿弥陀如来に

          会いたくてたまからなかったのが、

          (キリストが)

          今や、はるか以上の栄光の姿をもって、

          ・・・・私に臨んで下さったのである。

          これこそが真の如来ではないか。」

           

          「キリストを信じたことによってかえって

          仏教が私の心に生き輝いてきた。」

           

          「仏教の有つものはことごとく

          キリストの上に

          冴え輝いている。」

           

          亀谷氏は

          西田幾多郎から宗教哲学を学び

          東大(東京帝国大学)で

          井上哲次郎と波多野精一から哲学、

          姉崎正治から宗教学を

          それぞれ学びますが

           

          仏教の歴史について

          原始仏教(無神論哲学)

          大乗仏教(釈迦信仰と言う有神論)

          浄土教(阿弥陀仏への信仰)

          ととらえ、

           

          「仏教は無神教なる釈迦に発し、

          有神教として発達し、

          ついに絶対他力信仰の親鸞教にまで

          及んできたのだ。

          かくてほとんど

          キリスト教の真近くにまで

          到達したのである。」

           

          と説き

           

          「キリスト教」を「太陽」に

          「仏教」を太陽の光を反映させる「月」に例え

           

          仏教をキリスト教と対立するものではなく

          「むしろキリスト教の前駆者であり

          案内者ではないか」と説いています。

           

          なるほどなあ

          と思います。

           

          日本における

          欧米人を介した

          キリスト教宣教は

          しばしば

          仏教と対立するものとして

          キリスト教を

          提示したために

           

          日本人の多くに抵抗感を与えてきた節が

          あるかもしれません。

           

          誰でも

          自分が今まで大切にしてきたものを

          頭ごなしに

          完全否定されたように

          感じれば

          心を閉ざしやすくなることでしょう。

           

          浄土教の僧侶から

          キリスト教の伝道者になった人に

          升崎外彦もいます。

          升崎氏の

          伝道生涯は

          映画化を望むほど

          ドラマチックなものでした。

          http://lvjcc0822.blog60.fc2.com/blog-entry-421.html

           

          升崎氏の信仰の告白(16歳の時)は

          「おお、主イエスよ、

          私は信じます。

          あなたこそ真の阿弥陀仏、

          生ける如来様です。」

          これは、多くの

          浄土真宗になじむ日本人の心に

          すとんと落ちる

          信仰告白の表現かもしれないなあ

          と思います。

           

           

          なにはともあれ

          私は

           

          教会に集うクリスチャンの仲間が

          家族親戚に

          愛をもって寄り添いながら仕えつつ

           

          ことあるごとに

          イエスキリストの福音を

          恥じることなく

          伝えていることに

          大変、励まされると同時に、

          嬉しさがこみあげ

          その労に主が報いて下さるようにと

          切に祈らされます!

           

          「主イエスを信じなさい。

          そうすれば、

          あなたもあなたの家族も救われます。」

          (新約聖書 使徒の働き16:31)

           

           

           

           

           

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          釧路市手話言語条例制定!
          0

             

            2017.3.17

            釧路市議会で

            手話が言語として条例で

            制定されることになりました!

             

            おめでとうございます!

             

            釧路市HPで

            市長さん自ら華麗な手話でごあいさつ

             

            釧路市HPで

            手話動画で

            基本的なあいさつ表現を

            学ぶことができます。

             

             

            昔インターネットが

            普及していなかった時代は

            こういうツールを使って

            学んだものです。

             

             

            私がかつて手話を学ぼうと思ったのは

            決してウルトラマンに

            感化されたからではありません。

             

            30数年前

            高校時代、

            恩師の英語教師が

            授業中、手話を使って

            ろうあ者とお友達になることの

            楽しみを話してくれたのが

            きっかけで

             

            私も大学時代

            短い間でしたが

            釧路手話の会に

            参加した時期がありました。

             

            かつて釧路駅近くにあった

            長崎屋の「ニシムラ」さんで

            ドキドキしながら

            手話を使って

            ケーキを

            買ったのも

            あの時期のことでした。

             

            城山のO金物店のご主人が

            手話の達人で

            屈託のない笑顔で

            私にとてもよく教えてくれたものです。

             

            あの当時

            手話の会には

            ざっと見積もって

            30人前後おられたでしょうか。

             

            例会が終わると

            釧路駅前の喫茶店ローリエに

            ろうあ者の方と

            コーヒーを飲みながら

            交流をさせていただいたものです。

             

            ろうあ者の方の

            豊かな身体表現にとても驚き

            感銘を受けたものです。

             

            われわれ日本人はえてして

            感情表現が乏しくて

             

            都会に行くほど

            能面のような表情で

            生活している人が

            多く、

            微笑んでいると

            「この人おかしいんじゃないか?」

            と思われかねない

            雰囲気さえあります。

             

            その点、

            私がお会いした

            ろうあ者の方々は

            コミュニケーションの手段として

            手話を用いながらも

             

            手話に頼ることなく

            手話以上に

            豊かな表情で

            体全身を使って

            コミュニケーションを

            とっているようにさえ思いました。

             

            「伝えたいと言う気持ち」が

            何よりも

            コミュニケーションでは

            重要なんだと思わされたものです。

             

            創造主なる神が

            人間にお与えになっておられる

            喜怒哀楽の表情を

            自由自在に用いておられる様子を見て

            ああ、これが本来の

            あるべき人間の姿ではないかと

            思ったものです。

             

            中学教員時代のこと

            浜中町立茶内中学校に赴任した折

            コミュニケーションクラブというものを

            生徒と立ち上げたことがありました。

             

            そこで生徒たちといっしょに

            ビデオで

            手話を学んだのも懐かしい思い出です。

            あれから二十数年たちました。

             

             

             

             

             

            インターネットが普及していなかった時代は

            こうやって学びました。

             

             

             

            今月初め札幌で行われた

            ケズイックコンベンション

            という聖書講話では

            英国人講師のメッセージを

            日本語に訳す通訳者のほかに

            手話通訳者が複数おられて

            交代交代に

            メッセージを

            手話で訳されていました。

             

            毎週日曜日

            教会での礼拝説教も

            ボランティアで

            手話通訳して下さる方が

            おられて

            ろうあ者の方々も

            ご一緒に

            神のみ言葉である

            聖書を学ぶことができたらと

            願い祈っています!

             

            ところで

            今も「釧路手話の会」が存続しているのかなあと

            思って調べてみました。

             

            ご興味の御有りの方は

            ぜひご連絡されてみてはいかがでしょう。

             

            釧路手話の会例会

            夜間部
            毎週木曜日 19:00〜21:00
            釧路市身体障害者福祉センター2階 集会室

            昼間部
            毎週金曜日 13:30〜15:30
            釧路市総合福祉センター4階 会議室


            お問い合わせは
            senntyoukyou3@ezweb.ne.jp
            090-2059-0187(清野)

             

             

            「イエス・キリスト」を表す手話表現は

            なんと万国共通だそうです!

             

            20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、

            トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、

            イエスが来て、彼らの中に立って

            「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
            20:27 それからトマスに言われた。

            「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。

            手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。

            信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
            20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
            20:29 イエスは彼に言われた。

            「あなたはわたしを見たから信じたのですか。

            見ずに信じる者は幸いです。」

            (新約聖書 ヨハネの福音書20:26〜29)

             

             

             

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