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聖書の神は、愛の「倍返しの神」
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    日曜晩は「半沢直樹」を

    夫婦で観ています。

     

    表情が般若のよう?

    このドラマに出てくる役者さんは

    歌舞伎役者が多いそうで

     

    表情の多様さ

    しぐさだけ見ていても

    とても痛快

     

     

     

    昨晩は

    ゴスペルクワイヤ

    パワープレイザーズの練習のために

    釧路町コミセンヘ

     

    同時間帯に行われている

    釧路町のコミセンの体育館での

    ママさんミニバレーサークルの

    絶叫パワーがすごい!

     

    ゴスペルクワイヤの皆さんの叫びを

    凌駕するようでした。

     

    ところで

    昨日は今皆さんが練習している

    Holy Waterの歌詞の中から

    Forgiveness(ゆるし)について

    お話しさせていただきました。

     

    でも短い時間だと

    なかなか言い足りない・・・

    肝心かなめなことを言えなかったと

    思うことが多く昨晩もそうでした。

     

    聖書の「ゆるし」とは

    「許し」ではなく「赦し」

     

    「赦し」とは

    水に流すことでもなければ

    なかったことにすることでもなければ

    たいしたことでないとみなして

    無視することでも

    我慢することでもなく

    自分の心を抑圧することでもない

     

    「赦す」

    ということは

    赦す人が泣き寝入りする

    ことではない

     

    「赦す」ということは

    相手をのさばらせることもなければ

    罪や悪を見て「見ぬ振りをすること」でもない

     

    悪は悪であり

    罪は罪である

     

    聖書の「赦し」とは

    簡単に言うと

    人がした悪や罪に対して

    自分が「裁判官」の座から降りて

    イエス様に「裁判官」の座に

    ついていただくことを決意して

     

    裁きの権威を完全に

    イエス様に明け渡すということ

     

    Your forgiveness is sweet~

     

    英語のFORGIVE(ゆるす)

    はFOR(〜ために)GIVE(与える)

     

    かつて米国のある小学校で

    女の子がクラスメートからいじめを受け

    サンドイッチに

    ひそかに鉛筆の削りかすを

    入れられるということがありました。

     

    その女の子は

    翌朝、クラスメート全員に手作りクッキーを

    プレゼントしたそうです。

    その手作りクッキーには

    JESUS LOVES YOU

    (イエスさまは、きみのことが大好きなんだよ)

    と彫られてあったそうです。

     

    その後のそのクラスメートの

    反応はご想像にお任せします・・・。

     

    イエスキリストは罪深いわたしたちをゆるすために

    十字架で身代りに刑罰を受けて死んで

    葬られてよみがえりました。

     

    イエスキリストは

    私たちのために(FOR)

    赦しを与える(GIVE)

    そのために

    十字架にかかられました。

     

     

    「赦し」という漢字の偏の「赤」は

    犠牲の血というか

    痛みを象徴しているよう

    赦しには「痛みを通る」という側面がある

    しかし、その痛みの向こう側には

    言いようもない平安と喜びと爽快感が神様によって

    備えられている。

     

    「赦さない」ことは

    自分の怒りを抱え込むという選択

    その自分の怒りを抱え込む向こう側で

    待ちうけているのは

    平安でも喜びでもなく

    空虚感と苦々しさと敗北感のみ

     

    私たちはまず

    自分自身が赦されなければ生きられない存在であることを

    認識する必要があるようです。

     

    罪なきイエスキリストが

    罪ある私の身代りに十字架で刑罰を受け

    そこで

    神の聖なる正しい裁きが執行されました。

     

    罪は裁かれなければ正義が損なわれます。

    正義の神様がそこで選択された方法は

    私たちの裁きを自らが背負って身代りに

    刑に服すことによって私たちの罪の償いを

    完了させるという方法

     

    私たちは

    イエスが私の身代りに十字架で死んで葬られて

    よみがえられたという事実にこめられた意味を信じ

    自分の罪を告白し、神に赦しを請い

    神の赦しを感謝し

    赦された平安をもって神のこどもとされる喜びを

    抱きながら生きるよう招かれている

     

    イエスを自分の罪からの救い主として

    信頼するだけで、罪ゆるされて神のこどもとされ

    天国が保証される

    これほど良い知らせグッドニュースはありません。

     

    コロナ感染者の数がどれだけ増えても

    このグッドニュースをかき消すほどのニュースには

    なりえません。

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    つづく

     

     

     

     

     

    自分がどれだけ愛されているかを確認する最も

     

    確かな方法は

    主イエスの十字架を黙想すること

     

    それ以外の方法で

    自分が愛されていることを

    確認しようとすると

    蟻地獄の穴に陥るようなもの・・・

     

    赦された喜びを味わうことは

    今度は自分自身が赦す側となる際の

    喜びの導火線のよう

     

    赦すことは

    感情や気持ちではなく

    意志と決断の問題

     

    「赦したい」気持ちになるまで待っていたら

    いつまでたっても「赦す」ことはできない

     

    聖書で

    イエスキリストは

    「私たちも

    私たちに負い目のある人をゆるします」

    祈るようにと

    弟子たちに教えました。

     

    つまり主イエスはゆるしとは

    意志と決断の問題だと

    教えています。

     

    私たちは日々いろいろな場面で

    感情や気持ちを越えて

    意志と決断を働かせています。

     

    たとえば

    毎朝仕事に行くために6時に

    起床しなければならない人は

     

    目ざまし時計が6時に鳴った時に

    感情や気持ちは

    「まだ寝ていたい」

    でも

    「起きなきゃ」と

    意志と決断力を優位に働かせて起きる、

     

    その時に

    感情や気持ちに

    逆らって意志と決断することを

    偽善だとは言いません。

     

     

    気持ちとしては、「赦したくなく」ても

    「赦します」ということは、決して偽善ではなく

    それは主イエスのことばへの

    従順のしるしです。

     

    「ことば」には力があります。

     

    苦渋の気持ちをかかえながらも

    「赦します。」と宣言することで

    自分の内側に不思議な変化が起きることを

    多くの人が体験しています。

     

    悪魔は「赦したくないのに口先で赦すなんて言うお前は偽善者だ」

    そう呟いて

    赦さない状態をキープさせようと誘惑します。

     

    テレビドラマ「半沢直樹」の視聴率は

    高いようで私も欠かさず見ています。

     

    決め台詞の中に

    「やられたらやりかえす」

    「倍返しだ」がありますが

     

    聖書では、

    昨晩パワープレィザーズの皆さんにも

    分かち合いましたが

    こう書かれています。

     

    悪に対して悪を返さず、

    侮辱に対して侮辱を返さず

    逆に祝福しなさい。

    あなたがたは祝福を受け継ぐために

    召されたのです。

    (新約聖書 1ペテロ3:9)

     

    ここには

    赦した相手を祝福することが

    命じられています。

     

    祝福するということは

    言いかえると

    その人が神様の恵みを受け取ることができるように

    願い祈るということです。

     

    そもそも

    意地悪な人

    悪をもってぶつかってくる人

    悪口を言う人

    侮辱する人

    これらの人に共通しているのは

     

    神の恵みを味わっていないということです。

    神の恵みを味わっている人は幸せだなあと

    感じるので

    他者に対して悪をもって

    ぶつかることを

    通常しないものです。

     

    ですから、その人がまず恵まれて

    その恵みを横に流されるように

    と願いながら

    祝福を祈るのです。

     

    聖書の神様は

    真実な意味で

    倍返しの神様です。


    12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、

    すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。


    12:18 自分に関することについては、

    できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。


    12:19 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。

    神の怒りにゆだねなさい。

    こう書かれているからです。

    「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」

    主はそう言われます。


    12:20 次のようにも書かれています。

    「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、

    渇いているなら飲ませよ。

    なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」
    12:21 悪に負けてはいけません。

    むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

    (新約聖書 ローマ書12:17〜21)

     

    上の聖句を見て驚かれた方もいるでしょう。

    神様が

    「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」

    そう宣言されているのですね。

     

    神様の復讐は私たち人間の復讐とは

    質的に異なります。

     

    人間の復讐心には

    自己中心的な

    怒り、憎しみという罪が

    混ざりこんでいるものですが

    神様の復讐には

    罪がみじんのかけらも

    混入されていません。

    神様の復讐はきよさに満ちているのです。

     

    ある日本の

    伝道者が

    キリスト教嫌いの方から

    嫌がらせを受けました。

     

    具体的に言うと

    車のマフラーに

    石を詰めるという嫌がらせを続けざま

    受けました

     

    伝道者は

    誰からそのような仕打ちを受けたか

    わかりませんでしたが

    そうした人のために

    ひたすら祈りました。

     

    すると、その嫌がらせをした方の身に

    さまざまな災厄が起こり

     

    ある日、いたずらを繰り返した本人が

    伝道者の方のところに

    訪れて、涙ながらに謝罪したそうです。

     

    過去のキリスト教の歴史において

    クリスチャンすなわち神のしもべを侮辱したり

    迫害を与えた者たちで

    幸せになった人は一人もいません。

     

    このことは神様はご自分のこどもを

    むげに扱う者に対して

    黙ってはおられないことを

    証明しています。

     

    このことがわかると

    キリスト者は

    自分にひどく当る人が

    ひどい目に遭うことを

    むしろ不憫に思い

    「主よ、赦してあげてください」

    ととりなす祈りをするようになれます。

     

    新約聖書の使徒の働きの中で

    最初の殉教者ステパノは

    「主よ。この罪を彼らに負わせないでください・。」

    そう祈りました。

     

    これはまさに

    主イエスが十字架上で最初に語られた言葉として記録されている

    「父よ彼らをお赦しください。

    彼らは、自分が何をしているのかが

    わかっていないのです。」

    (新約聖書ルカの福音書23:34)

    という最大のとりなしの

    足跡に重なるような祈り

     

    先日

    聖書通読の箇所で

    イザヤ書61:7〜8を読んで目からうろこが

    落ちる思いでした。


    61:7 あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受け、

    人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。

    それゆえ、人々は自分の地で二倍のものを所有し、

    とこしえの喜びが自分のものとなる。
    61:8 「まことに、わたしは主、公正を愛し、

    不法な略奪を憎む。

    わたしは真実をもって彼らのわざに報い、

    永遠の契約を彼らと結ぶ。

    (旧約聖書 イザヤ書61:7)

     

    なぜ、この聖句が

    私にとって

    目から鱗だったか

     

    それは、神様は

    神様に信頼する者が

    この地上で恥を受ける時に

    2倍の祝福を受けるという

    あっと驚く「どんでん返し」を

    体験することが

    約束されているからです。

     

    赦すということは

    この地上で

    痛み、傷ついた人が

    被害者感情を持ち続けることではない

     

    赦すということは

    損した感におおわれながら

    残りの人生を送ることではない

     

    赦すということは

    「泣き寝入り」の人生を

    送ることを意味しているのではない。

     

    赦すということは

    その人に約束されている

    「喜び歌う」人生を送ることができる

     

     

    神様はなんと憐れみ深く

    情け深い神様でしょう。

     

    これこそ

    神様の究極の愛の「倍返し」

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