クリスマス礼拝に集う
皆さんの笑顔に感謝
取材においでくださった
釧路新聞社の編集者の方に感謝
主イエスの誕生をお祝いする
賛美のうたごえに
感謝
4か月以上におよぶ
苦難の入院生活をへて
退院したばかりの姉妹の
聖書朗読に感謝
愛のともしびを心に
灯火される
主イエスのやさしさに感謝
主イエスを信じて
とっても幸せですと笑顔で
救われた喜びを分かち合う
証に感謝
ご多忙の中
釧路の市政を担う
市議さんの日ごろの労苦に感謝
最後に市政のお働きの祝福を
お祈りさせていただき感謝
アドベンドクランツ
4本全灯火
これら4本はやがてくすぶるともしび
されども
「わたしは世の光です。
わたしに従う者は
闇の中を歩むことがなく、
いのちの光をもちます。」と語られた
主イエスを信じる
私たちの心にともされる
5本目のともしびは
くすぶることのない
「永遠の光」
私は浄土真宗の家庭で
「南無阿弥陀仏」になじみながら
育ちました。
「アミタ」とは
インドのサンスクリット語で、
「量ることのできない」という意味
「アミターバ」(無量光、無限の光)とも
呼ばれ
「阿弥陀仏」は
光り輝く仏として「無量光仏」とも
呼ばれていますが
高校時代までの私にとって
その浄土の教えは
あまりにも観念的すぎて
口先で念ずることはできても
心で信ずることには
正直困難さを覚えました。
その理由の一つとして
阿弥陀仏の場合
地上での
歴史的経歴が
まったく伝えられていないことにあると
思われます。
つまり私にとっては
「昔々あるところに
おじいさんとおばあさんがいました。」
というような世界を
思いめぐらすようなものだったのです。
しかし
聖書では
「イエスが、ヘロデ王の時代に
ユダヤのベツレヘムでお生まれになった」
(マタイ2:1)
と、だれが、いつ、どこで、何をしたか、
聖書には歴史的事実として
書かれていて
裏付ける考古学的証拠がありすぎ
反証する考古学的証拠は
ひとつもない。
しかも
ありがたいことに
それらの事実が自分にとって
どういう意味を持つのかまでも
丁寧に聖書には
書かれているので
「信頼に足る」と
判断することができたのです。
それが
高校3年の時でありました。
かつて
名ばかりの
阿弥陀信者?だった私の心には、
浄土へのあこがれはあっても、
罪のゆるしや天国に入る
確信と希望がありませんでした。
阿弥陀仏は西方浄土にいて
「外には出ない」存在とされていますが
主イエスキリストは
万物の創造主であるにもかかわらず
天から「外に出て」
罪と悪に満ちた
この世に
人の姿を持って
来られて
私たちの罪のために
十字架で死んでよみがえり
ました。
釈迦は80年で死んで
遺骨があり
死からの復活や昇天もなく
ある方々は今に至るまで
遺骨礼拝(仏舎利塔)
をしていますが
主イエスは33歳で死んで復活し
墓は空っぽ
昇天し
今も父なる神の右で
私たちのために
永遠の大祭司として
とりなしていてくださいます。
イエスの遺骨がないからこそ
クリスチャン信仰は
永遠のいのちへの確かな希望
復活の体への希望をもてる
浄土の教えになじんできた
我々日本人が
切にしたい求めてきた
無量光の実体とは、実は
主イエスキリストのことであると
つくづく思わされます。
このクリスマスの時期
真の光である
イエスキリストの光が
一人でも多くの方の心に
喜びと希望をもたらしますように。
12:35 そこで、イエスは彼らに言われた。
「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。
闇があなたがたを襲うことがないように、
あなたがたは光があるうちに歩きなさい。
闇の中を歩く者は、
自分がどこに行くのか分かりません。
12:36 自分に光があるうちに、
光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」
・・・・
(新約聖書 ヨハネの福音書12:35〜36)
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