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「浄土真宗」と「わたし」
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    室町時代は、『菅原』姓だったようですね。

     

    最近はちまたで

    「家系図を作りましょう!」

    という呼びかけがなされているようですが

     

    私の場合は幸い

    親戚の中で

    熱心に室町時代まで調べて

    くださった方がおられて

    感謝しています。

     

     

    我が家の家系図によると

    山形家は

    代々

    浄土真宗西本願寺派で

    ありました。

     

    ただし

    私の親戚の中でも

    たとえば

     

    東京の明大前で

    開業医として

    長年地域医療に仕えて来られた親戚など

    クリスチャン信仰

    をもつようになった方も

    中にはおります。

     

    何はともあれ

    浄土真宗には

    永いご縁があります。

     

    先週の釧路新聞の「シニアコーナー」に

    興味深い記事が

    掲載されていました。

     

    「カンタン英語で浄土真宗入門」の

    著者おおぎしょうじゅんさんは

    米国ハーバード大学神学部で

    仏教研究をされてきた方で

    わかりやすい英語で仏教を紹介されている

    新進気鋭の仏教学者

     

    おおぎさんは南無阿弥陀仏を

    Itake refuge in Amida Buddhaと

    訳されました。

     

    わかりやすく言うと

    「阿弥陀仏を避けどころとします。」

     

    これに対して

    浄土宗は

    I pray for Amida Buddha

    「阿弥陀仏に向かって祈ります。」

     

    この両者には「お互いに譲ることのできない

    根本的な違いがある」そうです。

     

    ここで「あれっちょっと待てよ!」

    と思いました。

    阿弥陀仏に向かってお祈りするの(称名念仏)であれば

    Pray forではなくて

    Pray toではないかな?

     

    きっと、おおぎさんはPray to と言ったつもりが

    新聞編集の段階で

    何かの間違いで

    Pray forに

    なってしまったのではないかなと

    思い

    山口県の超勝寺に

    問い合わせたところ

     

    ちょうど、

    おおぎ僧侶とお話することができ

    感謝のひとときでした。

     

    おおぎ先生は

    私がご指摘させていただいた通り

    Pray toが正しいと

    仰ってくださったので

     

    新聞記者さんとの会話の中で

    記者さんが

    もしかすると

    聞き間違われたかもしれないと

    思いました。

     

    ただいずれにしても

    新聞と言うのは

    不特定多数の多くの方々に読まれるものなので

    仏教について間違った誤解が

    広まってはいけないと

    思い、

     

    釧路新聞社に

    お電話しましたら

    「この記事は時事通信社から送られてくる記事で

    釧路新聞社の誰かが

    執筆しているのではないのです。」

    と言われて

     

    今度は

    発信元である

    東京都中央区の時事通信社に

    ご連絡をさしあげたところ

     

    この記事を執筆された

    文化欄の担当記者Tさんと

    お話しすることができ

    感謝でした。

     

    まずは、「興味深い記事を

    ありがとうございます。」

    とお礼を申し上げた上で

     

    「Pray forではなくてPray toと

    ご本人は理解されていること」

    お伝えしました。

     

    Tさんは

    「おおぎさんに確認をとって

    訂正が必要であれば

    訂正いたします。」

     

    と丁寧に対応して

    くださいました。

     

    ところで釧路新聞のシニア欄は

    ふだん

    Tさんが執筆されるのですか?と

    お尋ねしましたら

     

    そうではないそうで

    通常、地方の新聞社では

     

    新聞紙面を

    独自取材記事だけで

    埋め尽くすことは困難なため

     

    さまざまなところと

    契約を結んで

    配信を受ける仕組みに

    なっているそうです。

     

    ちなみに今回の

    「簡単英語で伝える仏教の教え」は

    9月5日に

    時事通信社の記事にされ

    その後

    全国のあちこちの

    地方新聞で

    すでに

    紹介されているとのことで

     

    読者からの指摘としては

    私が

    初めてだったそうです。

     

    今回のことをとおして

    おおぎさんと

    お知り合いになることができ

     

    また時事通信社さんとも

    ご縁ができたことは

    幸いでした。

     

    これも

    神様のご縁

     

    時事通信社さま

    釧路新聞社さまにも

    感謝しています。

     

    おおぎさんは

    とても謙遜で聡明な方で

    いらっしゃって

     

    これからも

    宗旨は異なれども

    学び合う友で

    ありたいと思いました。

     

    拙ブログも

    おおぎさんに

    紹介させていただきましたので

    この記事もご笑覧

    いただけているかな〜

     

     

    おおぎさんによると

    「自業自得」は仏教用語だけれども

    本来は、ネガティブな意味はなく

     

    「自分の未来は自分で切り開く」という

    前向きな意味合いだそうです。

     

    へえ〜今まで、『あの人がこういう目に遭ったのは

    自業自得かもしれないね』と

     

    過去のありかたに

    目を留めて

    反省させることばとして

    誤用したきた無知を

    思い知らされました。

     

     

    「過去の悪い行いが今の不遇の原因」

    という意味で

    使われるのは

    「業」がヒンズー教の「カルマ」(宿業)の

    意味でとらえられているから

    だそうですね。

     

    私は常々

    仏教は、あくまでも

    いかに生きるべきかを

    考察するという点で

    哲学じゃないかな〜

     

    人間がどこから来て

    どこへ行くかを取り扱う

    宗教とは

    異なる『人生哲学』じゃないかな〜と

    理解してきたので

     

    おおぎさんの説明に

    なるほどと

    合点がいきました

     

    それにしても

    浄土宗が

    阿弥陀仏を祈りの対象

    としてのみとらえ

     

    浄土真宗が

    阿弥陀仏を信頼する対象

    としてとらえるという

    相違点を

     

    改めて

    認識しつつ

     

    聖書では

    天地創造の神、そして

    み子イエスが

     

    祈りの対象であると同時に

    信頼の対象でも

    あると教えていることを

     

    なんと

    ありがたいことかと

    改めて感謝しました。

     

    日本においては

    阿弥陀信仰は

    根強いものがありますね。

     

    阿弥陀さんと

    対極にあるものとして

    主イエスを紹介するのではなくて

     

    真宗の人々が

    阿弥陀さんに対して

    抱いてきた真理や

    求めてきたものが

    すべて

    主イエスのうちに内包され

    完成された形で

    見出される

    というふうに、

     

    紹介できたら

    どうかなと思いました。

     

     

    As for God, His way is blameless;
    The word of the Lord is tried;
    He is a shield to all who take refuge in Him.

    (神、その道は完全。

    主のことばは純粋。

    主は、すべて主に身を避ける者の盾。)

     

    私はクリスチャンになる

    18歳までは

    浄土真宗の家系に育った者の

    一人として

    事あるごとに

    「南無阿弥陀仏」を

    唱えてきましたが

     

    「阿弥陀仏によりすがります。」

    と告白はしても

     

    ところで阿弥陀仏って何だろう?

    よりすがったら

    どうなるのだろう?

     

    よりすがる対象そのものについて

    明確なイメージが全くないために

     

    ぼんやりとした

    ひとり言のように

    念仏を諳んじていたように

    思います。

     

    聖書では

    よりすがる対象である

    主イエスが

    どのようなお方であり

     

    自分のために何をしてくださり

    今何をされていて

    これから何をされるかが

     

    聖書の中にも

    聖書以外の歴史書にも

    記されていることは

    私にとって

    大きな慰めでした。

     

    聖書では

    主イエスが

    「よりすがる対象」

    であるばかりではなくて

    「よりすがる者の盾」

    でもあることを約束しています。

     

    紀元30年ごろ

    私の罪を背負って

    罪なきイエスが

    十字架で身代りに死んで

    復活されると言う

    史実

     

    空っぽの墓という証拠と

    命がけの使徒たちの証言の

    二つによって

    確証された歴史的事実として

    完成された救いのわざは

     

    信じる私の心に

    ゆるぎない平安を与えてくれました。

    その平安は18歳から

    56歳の今日に至るまで

    ゆらぐことがないことは

    幸いなことです。


     But as for me,

    I will pray to you, Lord;

    answer me, God, at a time you choose.

    Answer me because of your great love,

    because you keep your promise to save.

     

     しかし私は主よあなたに祈ります。

    神よみこころの時にあなたの豊かな恵みにより

    御救いのまことをもって私に答えてください。

    (旧約聖書 詩篇69:13)

     

    「いわしの頭も信心から」

    ということわざがあります。

     

    かつてイワシの頭の臭気が

    邪鬼を追い出す効果があると

    言う言い伝えがあり、

     

    一見、価値のなさそうな「いわしの頭」でさえも

    用い方によっては

    信心の対象にさえも

    なってしまうという

     

    なんでも信仰の対象に

    まつりあげてしまう

    日本人の精神性を

    揶揄しているともとれることわざ

     

    それほど、信心深い、ととらえるか

    それほど、節操がない、ととらえるか

     

    今日でも

    手を合わせて

    おがみまではしなくても

     

    たとえば

    素晴らしい対応をしたら

    「神対応」と言ってみたり

     

    「神」と言う言葉の重みが

    あまりにも

    本来もつ重みよりも

    軽くされているきらいが

    あるように思います。

     

    われわれ日本人は

    ありがたいものは

    何でも拝む対象にしてしまう

    ところがあるよう

     

    私もかつて

    その一人で

    高校3年生の夏に主イエスを信じる前は

    「神仏を尊び〜」という極真空手の

    道場訓にならって

     

    手当たり次第に

    神と名のつくものを

    拝んでいました。

     

    拝む対象がいったい何なのか

    わからないままに、

    ただ自分の願望を一方的に

    押しつける

    自己中心的信仰でした。

     

    18歳のとき

    唯一の神が

    おられることを知って

     

     遠い大昔のことを思い出せ。

    わたしが神である。

    ほかにはいない。

    わたしのような神はいない。

    (旧約聖書 イザヤ書46:9)
     

    (聖書)

    そうおっしゃるお方がどのような

    お方かであるかを

    聖書から日々知らせていただきながら

     

    その愛とゆるしの大きさに包まれながら

    お祈りさせていただける人生に導かれたことを

    感謝しています。

     

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    カテゴリ:- | 09:14 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
    コメント
    小林塗装さま、コメントありがとうございます。私の町内会の元会長さんが雑賀さんでしたので、もしかするとご親戚かもしれませんね。昔、定時制高校の先生でいらっしゃったそうです。家系図を調べるといろいろなつながりが見えてきて楽しいかもしれませんね。もし面白い発見がありましたらいつの日かシェアしてくださるとうれしいです。
    | Hiro | 2018/10/18 10:08 PM |
    今回の記事内容はいつもとは趣向が違い気になりゆっくり読みました。
    新聞の記事欄には今までミスがあったりすることはあったでしょうね〜(悪い意味ではないです。)

    僕は特別どこか信仰している訳じゃないので言う権利もありませんが、世界にある宗教上の理念や神話系統の逸話には共通部分が多くあるので中々興味深いです!
    そういったお話も書かれる事が多いですから、時々読ませていただいていますよ〜。

    さて、これを気に僕も家系図調べてみたいですね。うちの母の家系は雑賀といい釧路ではほとんどいないと聞いています。どんな家系なのか?先祖はどんな人物か?いずれ機会あれば探ってみまーす!(^-^)
    | 小林塗装 | 2018/10/18 9:10 PM |
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