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「オプジーボと宗教教誨」
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    2018年10月2日

    薄暮を迎える釧路刑務支所

     

     

    釧路刑務支所の外壁

     

    今月の宗教教誨には

    新しい参加者Aさんが

    加わりました。

     

    また今まで

    毎月熱心に

    参加されていたBさんが

    いよいよ

    社会へと出て行かれました。

     

    Bさんが

    キリストの体なる

    地元の教会へつながることを

    願っています。

     

    さてこの日は

    ちょうどノーベル医学・生理学賞を

    日本人である本庶さんが

    受賞されるたニュースが

    ネットでも

    駆け巡っていたので

     

    「オプジーボと信仰」というテーマで

    受刑者のみなさんと

    学び合いました。

     

    そもそもオプジーボって?

     

    文字の説明を読んでも

    なんだか

    わからないので

     

    以下のように図解したものをヒントに

    イメージしてみました。

     

     

     

     

    私たちの心が

    罪に抵抗するための

    秘訣を

    オプジーボを例に

    考えました。

     

    私たちの心には

    善を行いたいのに

    生まれながらの

    罪の性質から出てくる

    「汚れ」のゆえに

     

    ついつい罪の誘惑に遭うと

    妥協してしまう

     

    言いかえると

    悪を欲して

    悪の誘惑と結合してしまう

     

    これは

    がん細胞に抵抗するはずの

    T細胞の

    表面にある

    PD−1が

    がん細胞のPDーL1と結合して

    がん細胞への抵抗力が

    減退されて

    がん細胞への攻撃に

    ブレーキをかけてしまうことと

    似ています。

     

    この場合

    私たちの

    生まれながら持つ

    罪にひかれていく

    「けがれ」の性質は

    PD−1のよう

    PROGRAMED CELL DEATH

    まさに

    母親の胎内にいる時から

    「死に導くように細胞の中に

    あらかじめ

    プログラムされているもの」

     

    私たち人間は

    最初の人間アダムとエバが

    創造主に背を向けて

    罪を犯して以来

    罪(原罪)があるゆえに

    霊的遺伝的特質として

     

    生まれると同時に

    死ぬことが

    すでにプログラム化され

    決定されるように

    なってしまいました。

     

    誕生した

    ということは

    喜びであると同時に

    死刑宣告されている

    (悲しみを背負っている)

    と変らないわけです。

     

    聖書では

    このことについて

    「人間には一度死ぬことと

    死後に裁きを受けることが定まっている」

    と表現しています。

     

    私たちは

    善を行いたい

    (永遠に生きたい)

    と思いながらも

    悪の誘惑の引き金があると

    実際には、したくない悪を

    ついつい選び取って

    結果として

    死を招き寄せてしまう

     

    これは

    さしずめ

    PD−1とPD−L1の結合による

    免疫細胞(T細胞)の無力化

    (ブレーキ化)

    に似ています。

     

    車の運転で言うと

    エンジンをかけても

    サイドブレーキが

    かかったままだと

    なかなか動きずらい状態のようです。

     

    受刑者の方々に例として

    この日お話したのは、

     

    警察が

    暴力団を排除したいと

    思いながらも

    もし警察の上層部が

    暴力団の組長とつながっていれば

    そのつながりがブレーキとなってしまい

    排除は難しいですよね、

     

    その場合

    ブレーキを外す役割を果たすのは誰でしょうね?

    という質問をさせていただくと

     

    受刑者の方の中から

    「監察官」とか「公安」という意見が

    出てきて

     

    私も

    「なるほど」と反応

     

    今月再スタートする

    「相棒」も楽しみだなあ

    などと

    余計なことが

    一瞬

    頭をよぎってしまいました。

     

     

    オプジーボというのは

    ブレーキを解除する働き

    をするということですね。

     

    すなわち

    オプジーボが

    T細胞表面の

    PD−1の働きと結合することで

     

     

    がん細胞の

    PD−L1との結合することを

    阻止し

     

    本来T細胞(免疫細胞)が持っている

    がん細胞への攻撃力を

    回復させることが

    できるようになるのと・・・

     

    同様に

     

    私たちの心にも

    罪の誘惑にひかれていく「内なる汚れ」が

    罪の誘惑と結合しないようにさせる

    「何か」が必要です。

     

    その「何か」は

    私たちの努力、がんばり、経験などの

    私たちに

    内在する何かではなくて

     

    主イエスを信じることを通して

    外部から

    もたらされる

    「主イエスの血の力」

     

    罪なき

    み子主イエスの血のみが

    信じる者のうちにある

    「内なる汚れ」を

    きよめることを可能にする

     

    み子イエスの血は私たちを

    あらゆる罪から

    きよめることができる!

     

    それまで

    どうしても

    悪にひかれて、妥協して

    「汚れ」に支配された

    心が

    刷新されることで

     

    悪に打ち勝とうとする

    傾向がより強くなる

     

    それは言い換えると

    神の愛による

    罪からの分離といっても

    いいかもしれません。

     

    人は

    神の愛によってのみ

    罪の誘惑という

    攻撃から

    真の意味で

    距離を置くことが

    可能となります。

     


    7:15 私には、自分のしていることが分かりません。

    自分がしたいと願うことはせずに、

    むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。


    7:16 自分のしたくないことを行っているなら、

    私は律法に同意し、

    それを良いものと認めていることになります。


    7:17 ですから、

    今それを行っているのは、

    もはや私ではなく、

    私のうちに住んでいる罪なのです。


    7:18 私は、自分のうちに、

    すなわち、

    自分の肉のうちに

    善が住んでいないことを知っています。

    私には良いことをしたいという

    願いがいつもあるのに、

    実行できないからです。


    7:19 私は、したいと願う善を行わないで、

    したくない悪を行っています。
    7:20 私が自分でしたくないことをしているなら、

    それを行っているのは、

    もはや私ではなく、

    私のうちに住んでいる罪です。


    7:21 そういうわけで、

    善を行いたいと願っている、

    その私に悪が存在するという原理を、

    私は見出します。


    7:22 私は、内なる人としては、

    神の律法を喜んでいますが、
    7:23 私のからだには異なる律法があって、

    それが私の心の律法に対して戦いを挑み、

    私を、からだにある罪の律法のうちに

    とりこにしていることが分かるのです。


    7:24 私は本当にみじめな人間です。

    だれがこの死のからだから、

    私を救い出してくれるのでしょうか。
    7:25 私たちの主イエス・キリストを通して、

    神に感謝します。こうして、この私は、

    心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。


    こういうわけで、

    今や、キリスト・イエスにある者が

    罪に定められることは決してありません。
    (新約聖書 ローマ書7:15〜8:1)

     

    この聖句の最後の

    「キリスト・イエスにある者」とは

    キリスト・イエスを

    自分の救い主として

    信頼する者という意味です。

     

    この日

    受刑者の

    皆さんで

    ローマ書7:15〜8:1

    を一節ずつ

    意味を考えながら

     

    「私はほんとうにみじめな人間です。」

     

    という告白をご一緒に

    しました。

     

    また、一人一人が

    「自力では罪を辞めることはできない」こと

     

    「私は(神様の助けがなければ)

    また罪を繰り返してしまう可能性に満ちています」

     

    という告白もしました。

     

    そして

    「主イエスが十字架で流された血だけが

    私の罪、けがれを

    ゆるし、きよめることができることを信じます。」

     

    という告白をしました。

     

    「神様、もう二度とこんなことしません!」

     

    という祈りはやめようと

    勧めました。

     

    なぜなら

    「2度とこんなことはしない」

    と断言できるほど

    私たちの意志力は強くないからです。

     

    「2度としない」

    というのは

     

    神様の助けはなくても

    自分の意志力に頼って

    やっていけるという

    自己信頼

    自己過信

    の裏返しでも

    あるからです。

     

    「2度としない」

    というのは

    まだ本当の意味で

    自分の弱さ、はかなさ

    罪深さを認識していないしるしです。

     

     

    「もう二度とやらないと言いきれるほど

    私の、罪との決別の意識は強いんだ!」

     

    という言葉は

    まだ本当の自分の弱さに気づいていない

    ことを示しているように思えます。

     

    正直なところ

    いついかなる罪を犯すかわからない

    それが私たちの真実のありよう

    ではないでしょうか。

     

    大切なことは

    神の前に自らの罪を

    へりくだって正直に告白して

    赦しをこい、

    きよめを信じ切ること

     

    「こんな罪人を

    憐れんでください」

     

    これが私たちがきよい神様の前で

    告白できる

    精一杯の祈りといっていいでしょう。

     

    よく親が子供に向かって

    「二度としないって約束しなさい!」

    と叱りつけることが

    ありますねえ・・・。あれは・・・。

     

    神様の前では

     

    「2度とこんな罪を犯しません」ではなくて

    「2度とこんな罪を犯さないように

    聖霊様、助けてください。」

    がふさわしい祈りかと思います・・・。

     

    神様は

    私たちがどれほど強い意志を

    持っているかを

    確認されたいお方ではなく、

     

    むしろ

    私たちが

    どれほど

    神様に信頼を置いているかを

    ご覧になるお方・・・

     

    以上のようなことを

    みんなで確認しました。

     

    ふだんにもまして

    深い聖書の学びとなりました。

     

    ノーベル賞の

    中身を引き合いに

    聖書から

    適用させていただく試みは

    恐れ多いことで

    とてもチャレンジなことでした。

    もし私たちが自分の罪を告白するなら、

    神は真実で正しい方ですから、

    その罪を赦し、私たちをすべての不義から

    きよめてくださいます。
    (新約聖書 1ヨハネ1:9)

     

    昨日の宗教教誨では

    私自身も

    多くを教えられました。

     

    それにしても

    受刑者のみなさん

     

    真剣に

    聖書のことばに

    くらいついておられました。

     

    そればかりか

    刑務官のAさんまでが

    興味を持たれて

     

    真剣に

    受刑者の方々がおもちの

    聖書のことばに

     

    身を近づけて

    覗きこんで

    ご覧になっておられました。

     

    神様が

    何かすごいことを

     

    刑務所の中で

    起こし始めておられるなあ

     

    そんな手ごたえを

    覚えて

    震えるような

    1時間でした。

     

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