<< ボランティア精神のルーツ | main | 標茶の雪原を越えて >>
今月の釧路刑務支所・宗教教誨(2018.4.3)
0

    2018.4.3(火)

    今月の宗教教誨も

    緊張感と熱いまなざしの中

    密度の濃い1時間

    受刑者の皆さんと

    聖書から

    語り合いました。

     

    最後に質問タイムを

    とりましたが

    ボンボン手が挙がり

    時間が足りないほどでした。

     

     

    この日の最後の質問は

     

    イエスさまが語られた

     

    「あなたの右の頬を打つ者には

    左の頬も向けなさい」とは

    どういう意味ですか?

     

    というものでした。

     

     

     

    当時、平手打ちは

    侮辱する行為で

    まずは

    通常右手の甲で相手の右ほおを

    打ちます。

     

    そして

    そのまま右手の

    今度は掌側で

     

     

    相手の左頬を打つ

    いわゆる

    当時の往復ビンタの型です。

     

     

     

     

    イエスさまは

     

    右の頬を打たれたら

     

    左の頬を「打たせなさい」

     

    と命じられたのではなくて

     

    「向けなさい」と命じられました。


     

     

    イエスさまはこの教えを

    山上の説教の中

     

    とりわけ

    自分にしたがって

    歩もうとしている

    弟子たちに語られているところです。

     

    敵を愛する愛について語っている

    文脈です。

     

    イエスさまが与えてくださる愛の

    ありかたの性質とは

    どういうものか・・・

    ということ

     

    この世の人の感覚では

     

    右の頬を打たれたら

    以下の

    4つの選択肢の

    どれかを

    選ぶのではないでしょうか。

     

    1.右の頬を覆って、痛みをアピールする。

    (被害者意識を訴えるが勝ち!?)

     

    2.ひたすら避難する。

    (逃げるが勝ち!?)

     

    3.反対側(左の頬を)隠す、カバーする

    (自己防衛が勝ち!?)

     

    4.反撃する

    (復讐するが勝ち!?)

     

    しかし主イエスは

    「左の頬を向ける」という

    この世ではありえないような選択肢を

    選ぶように命じました。

     

    それは

    少しもひるんでいない姿勢

    愛するが勝ち!

    という選択肢

     

    愛はすべての

    そむきの罪を覆う

     

    これは

    わかりやすく言うと

     

    相手の侮辱行為によっては

    それまで抱いていた

    相手に対する愛の姿勢・態度を

    少しも変えて

    しまうことはないですよ

    ということ

     

    「たとえ、あなたが左の頬を打ったとしても

    それでも

    それまで

    あなたに対して

    私が決意してきた愛の態度

    にはこれっぽっちも

    変りはありませんよ。

    もし、どうしても

    たたきたいなら、

    どうぞ・・・」

     

     

    私たちは

    必死に

     

    愛を示そうと思いながらも

     

    相手が

    謝意を示さなかったり

    誤解したり

    反対したり

    無視したり

    侮辱したり

    しようものなら

     

    容易に

    態度を変えてしまい

    怒ったり

    落胆したり

    いらついたり

    怖くなったり

    しやすいものです。

     

    相手の行動によって

    容易に

    自分の心の姿勢を変えてしまう・・

     

    とすれば

    それは

    言い方を変えると

    相手に支配されている

    相手にコントロールされている

    ことになります。

     

    実に不自由で束縛された

    人生ということ

     

    本当の自由とは

    相手の反応いかんにかかわらず

    愛を

    思う存分

    表現できること

     

    そのような愛は

    生まれながらの人間で

    持ち合わせている人は

    まずいません。

     

    人間は

    誰もが

    自己中心

     

    真の愛は

    神からのみ

    出てくるもの。

     

    神こそが愛

    そもそも

    愛は神からのみ

    出てくるもの

     

    そう聖書は

    断言します。

     

     

    真の自由人は

    相手の反応によって

    自分の愛の決意をみじんも

    変えない人

     

    真の愛は

    相手の反応によって

    左右されない性質のもの

     

    そして

    そのような真の自由人

    真の愛の人として

    この地上を

    歩まれたお方が

    主イエスキリスト

     

    イエスキリストは

    「右の頬を打たれたら・・・」

    と教えただけではなくて

     

    事実

    十字架の上で

     

    自分を磔にする者たち

    自分を罵る者たちのために

    祈られました。

     

    「父よ彼らをおゆるしください。

    彼らは、自分が何をしているのかが

    わかっていないのです。」

    (新約聖書 ルカの福音書23:34)

     

     

    主イエスは

    ご自分の愛を

    信じる人の心に

    注いでくださいます。

     

    主イエスの十字架上の姿を

    思いめぐらす時

     

    わたしたちが

    それまで

    抱いてきた愛というものは

    「愛もどき」であって

    真の愛とは

    似て非なるものであることが

    わかります。

     

    この日

    受刑者の皆さんと

     

    「では、この刑務所の中で

    どのようにして

    そのような

    愛を表現できるでしょう・・・。」

     

    ともに

    思いめぐらす時を

    持ちながら

    宗教教誨を閉じることになりました。

     

     

    数日前

    ローマ教皇も

    ローマの刑務所を訪ねられたという記事が

    目に留まりました。

     

    ・・・引用ここから・・・

    【CJC】ローマ教皇フランシスコは

    3月29日、ローマにある刑務所で

    「洗足式」を行い、イスラム教徒2人、正教徒、仏教徒を含む受刑者らの足を洗った。

    洗足式はイースター前の「聖木曜日」に行われる儀式で、

    教皇が刑務所で洗足式を行ったのはこれで4度目。

    受刑者たちに対し教皇は

    「人生を変える機会は常に誰にでもある。

    人が(人を)裁くことなどできない」

    と語り掛けた。

    同日、教皇に足を洗ってもらったのは

    イタリアをはじめフィリピン、

    モロッコ、コロンビア、モルドバ、シエラレオネ、

    ナイジェリア出身の受刑者12人だったという。

    ・・・引用ここまで・・・

     

    今度

    釧路刑務支所でも

    洗足式

    させていただけるものかどうか

    釧路刑務支所

    教育担当の皆さんに

    ご相談させて

    いただこうかなあ・・・

     

    みなさまのワンクリックは
    大きな励ましとなります!
    カテゴリ:- | 08:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    コメント
    コメントする









    この記事のトラックバックURL
    http://yamagata.fukuinkan.sunnyday.jp/trackback/1585733
    トラックバック