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「人はなぜ、死ぬのでしょう?」
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    「人はなぜ、死ぬのでしょう?

    それは、この世に生まれてきたからです。」

     

    午後6時半からのお通夜

    午後7時、読経を終えた

    ご導師(浄土真宗)が

    法話の中で

    お釈迦さんのお話として

    上記の言葉を引用されました。

    続けて、

     

    「死んだら、みな、きれいな蓮の葉の上に立つのです。」

     

    そう語られていました。

     

     

    ご導師は

    「私もね、70を過ぎて

    もう先が長くないと思います。

    つい最近病気になってねえ。

    ある病院の相談室へ行ったんです。

    そしたらカウンセラーの方にこう言われたんです。

    『手術できる体であることを感謝しては

    いかがでしょう。』と。

    ああ、そうだなあ

    感謝しなきゃなあ、と」

     

    とても平易な言葉で

    会話調でお話されていました。

     

    私の家系も代々

    浄土真宗ということもあって

    私はクリスチャンですが

    ある種の親近感を覚えます。

     

    昨晩、教会員Aさんの

    おしゅうとさん(92歳)の葬儀でのこと

     

     

    おしゅうとさんの生前

    Aさんは、おしゅうとさんの病室へ

    よくお見舞いに行かれては

    主イエスの福音を

    伝えつつ

    ベッドの傍らで

    真心こめてお祈りされていました。

     

     

    おしゅうとさんは

    クリスチャンであるAさんの

    献身的な

    看病をありがたがり、

     

    ある日、

    Aさんの招きに応じて

    主イエスを

    救い主として

    信じる信仰の告白へと

    導かれました。

     

    「人間は皆一度死ぬことと

    死後に神の前で

    さばきを受けなければならない

    けれども

     

    神の前に自らの罪を告白し

    主イエスを信じるならば

    主イエスの十字架に

    よって罪を赦されて

    永遠のいのちにあずかることができること」

    を伝え聴くことができ

    しかも信じることができたのです。

     

    ここでいう「永遠のいのちにあずかる」とは

    「天国のいのちに至る」と言い換えることが

    できるでしょう。

    「死んでも天国へ行ける」

    「天国で復活の体が

    与えられる

    そう言い換えることも可能でしょう。

     

    聖書では

    「人は心に信じて義と認められ

    口で告白して救われる。」

    (新約聖書ローマ書10:10)

    と約束しています。

     

    キリストを信じた人の魂は

    たとえ、葬儀が仏式であっても

    たとえ、洗礼を受けたり

    教会の礼拝に行くことが

    かなわなかったとしても、

     

    信じた瞬間

    主イエスのもとへ行くことが

    確証づけられています。

     

    私はAさんのおしゅうとさんに

    生前お会いすることは

    かないませんでしたが

     

    葬儀で

     

    BGMが流れる中

    故人のプロフィール画像と

    人生の歩みの紹介アナウンスを

    聴きながら

    「ああ、天のみ国で

    この方にお会いできるのだな」

    感慨深い思いが与えられました。

     

    おしゅうとさんは

    92年前

    国後島で生を受けられ

    戦地へのご出兵も経験されたそうです。

     

    このような先人の方々の

    ご苦労話を

    ぜひうかがいたかったものです。

     

    今日、多くの人が

    「なぜ●●で死ぬのか?」という類の

    問いを多くする一方で

     

    冒頭でご導師がご紹介下さった

     

    「人はなぜ死ぬのでしょう?」

    「死んだら、おしまいですか?」

     

    という根本的かつ、

    はるかに重要な問いについては

    避けながら

    生活しているように

    思えてなりません。

     

    もし私がそのように尋ねられたら

    どうお答えするかなあと

    思いました。

     

    そう質問される方が

    おかれている状況を

    配慮しながらし

    語り口は

    変えるとは思いますが、

     

    「人はみな生まれながら、罪があるので

    死ななければならないのですよ。

     

    「死んだら、それでおしまいではなくて

    人間には一度死ぬことと死後に

    さばきを受けることが定まっているのですよ。

    天国と地獄があるのですよ。」

     

    そのような

    お答えになるかなと思います。

     

    (原始)仏教とは

    「人間とは死ぬものなのだ」

    そのことを受容することを

    悟りとして

    強調する点において

    宗教と言うよりは、

    むしろ哲学の範疇に入る

    というのが私の今のところの理解です。

     

    ただ仏教の中でも

    とりわけ「浄土の教え」は

    「罪深い者が

    ただあわれみのゆえに信仰によって

    救われる。」と言う点において

    聖書信仰との類似性がある

    ともいえます。

     

    無数の仏の中から

    ただひとりの仏、

    「阿弥陀仏」だけを

    無数の仏国土からただ一つの

    「西方極楽浄土」だけを

    選び取る。

    そこには

    「唯一の救い」に対する

    憧憬の思いを

    垣間見る思いがいたします。

     

    聖書では

    神は唯一です。

    神と人との間の仲介者も唯一であって、

    それは人としての

    キリスト・イエスです。

    (新約聖書 1テモテ2:5)

    と明言しています。

     

    親鸞聖人の直系の蓮如上人の

    18代目の末裔にあたる住職、

    亀谷凌雲氏は

    元浄土真宗住職でしたが

    キリストと出逢い

    キリスト教牧師となります。

     

    亀谷氏は

    「阿弥陀を実質化、

    実体化したものが

    イエスである」

    と述べています。

     

    亀谷氏は

    「長い間

    救い主阿弥陀如来に

    会いたくてたまからなかったのが、

    (キリストが)

    今や、はるか以上の栄光の姿をもって、

    ・・・・私に臨んで下さったのである。

    これこそが真の如来ではないか。」

     

    「キリストを信じたことによってかえって

    仏教が私の心に生き輝いてきた。」

     

    「仏教の有つものはことごとく

    キリストの上に

    冴え輝いている。」

     

    亀谷氏は

    西田幾多郎から宗教哲学を学び

    東大(東京帝国大学)で

    井上哲次郎と波多野精一から哲学、

    姉崎正治から宗教学を

    それぞれ学びますが

     

    仏教の歴史について

    原始仏教(無神論哲学)

    大乗仏教(釈迦信仰と言う有神論)

    浄土教(阿弥陀仏への信仰)

    ととらえ、

     

    「仏教は無神教なる釈迦に発し、

    有神教として発達し、

    ついに絶対他力信仰の親鸞教にまで

    及んできたのだ。

    かくてほとんど

    キリスト教の真近くにまで

    到達したのである。」

     

    と説き

     

    「キリスト教」を「太陽」に

    「仏教」を太陽の光を反映させる「月」に例え

     

    仏教をキリスト教と対立するものではなく

    「むしろキリスト教の前駆者であり

    案内者ではないか」と説いています。

     

    なるほどなあ

    と思います。

     

    日本における

    欧米人を介した

    キリスト教宣教は

    しばしば

    仏教と対立するものとして

    キリスト教を

    提示したために

     

    日本人の多くに抵抗感を与えてきた節が

    あるかもしれません。

     

    誰でも

    自分が今まで大切にしてきたものを

    頭ごなしに

    完全否定されたように

    感じれば

    心を閉ざしやすくなることでしょう。

     

    浄土教の僧侶から

    キリスト教の伝道者になった人に

    升崎外彦もいます。

    升崎氏の

    伝道生涯は

    映画化を望むほど

    ドラマチックなものでした。

    http://lvjcc0822.blog60.fc2.com/blog-entry-421.html

     

    升崎氏の信仰の告白(16歳の時)は

    「おお、主イエスよ、

    私は信じます。

    あなたこそ真の阿弥陀仏、

    生ける如来様です。」

    これは、多くの

    浄土真宗になじむ日本人の心に

    すとんと落ちる

    信仰告白の表現かもしれないなあ

    と思います。

     

     

    なにはともあれ

    私は

     

    教会に集うクリスチャンの仲間が

    家族親戚に

    愛をもって寄り添いながら仕えつつ

     

    ことあるごとに

    イエスキリストの福音を

    恥じることなく

    伝えていることに

    大変、励まされると同時に、

    嬉しさがこみあげ

    その労に主が報いて下さるようにと

    切に祈らされます!

     

    「主イエスを信じなさい。

    そうすれば、

    あなたもあなたの家族も救われます。」

    (新約聖書 使徒の働き16:31)

     

     

     

     

     

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