<< 掌の痛み | main | 毎日が復活記念礼拝! >>
有珠優健学園の思い出(昭和46〜47年)
0

    釧路で少し揺れの強い地震が
    起こったとき

    真っ先に
    メールを下さったのは

    親や兄弟
    親戚ではなく、

    牧師仲間でもなく、

    クリスチャンの仲間でもなく、

    中高大時代の仲間でもなく

    教員時代の教え子からでも

    ありませんでした。

    小学生の時分

    有珠優権学園という

    虚弱児施設で苦楽を共にした
    仲間(東京在住)からでした。

    涙がこぼれました。

    年賀状のやりとり

    程度しかしていないかったのに

    「あいつは、こんなにも
    おれのことを心配してくれていたのか・・・」

    今でも

    そのことを思い出すたびに

    涙ぐんでしまいます。

    私にとって

    有珠優健学園は

    神様が備えてくださった

    様々な意味での

    成長のための場所でした。


    今は、物理的には

    なき学園となって

    しまいました。


    時代と共に

    虚弱児施設から

    養護施設に変容し

    その後は

    建物そのものさえも

    取り壊されて

    今は

    跡形もなくなってしまったそうです。

    しかし

    優健での思い出は

    そこに短い期間しか

    生活しなかった人にとっても


    数年間の長い期間そこで

    時を費やした人にとっても

    瓦解することなく

    心の中に

    残り続けているに違いありません。

    かつて北海道伊達市有珠町にあった
    有珠優健学園

    北海道で

    唯一の

    虚弱児施設でした。


    そこには北海道中から
    虚弱児が集められて

    親元を離れて

    集団生活をするのに

    適した
    広大で自然に恵まれた環境が

    備えられていました。

    私は
    その優健学園で

    小学3年から6年の卒業まで
    昭和46年夏から〜50年春まで
    (途中3ヶ月一般の小学校へ小4時代に戻りましたが
    やはり登校は無理で戻りました。)
    生活しました。


    実は昨晩のこと

    優健学園の2期生(昭和27年在園)の
    大先輩に当たる
    O様と
    お電話でお話しする機会が
    与えられました。

    初めて

    電話でお話したにもかかわらず

    とても心が通じたように

    思い感激いたしました。

    O様は

    昨年から

    様々な
    優健学園に関する

    資料を

    集められて
    記録を残されようとされています。

    大変素晴らしいことだと思いました。


    O様とのお電話をきっかけに

    私も

    懐かしい思い出を少しずつブログで
    ご紹介させていただき

    「優健学園」の

    先輩、後輩を含めて

    同窓生の皆さんと
    思い出を共有する拙い

    働きの一端を
    微力ながら
    お手伝いできればと

    幸いと思い

    少しずつ

    思い出をピックアップ

    させて
    いただくこととしました。




    昭和46年 毎年恒例 優健学園の室蘭バス旅行にて
    当時の私は小学3年生
    後列左から二人目の眼帯をかけた少年が私
    当時どの写真を見ても
    私は眼帯だらけ・・・眼帯は弱視の矯正のため
    視力の良い目を隠して悪いほうの視力を
    回復させるという
    治療法でしたが、実際のところ見づらくて
    私はいつも手でずらして
    良い目でこっそり見てしまっていたのです。
    ということで、眼帯は、
    あまり効果がなかったんじゃないかと思います。

    私の左手が寮母のY先生

    Y先生は
    当時寮のこどもたちからは
    最も信頼される母親的存在でも
    ありました。

    虚弱児というのは

    体が弱いゆえに
    ともすると

    家庭ではともすると「いいよいいよ」と
    甘やかされ

    過保護に育てられやすい傾向に


    あって

    健常児以上に

    ある面では

    自己中心的になりやすくなるものですが

    Y先生は


    そんな私たちの心を

    鍛えるために

    必要なアドバイスを

    全身全霊で

    示してくれました。


    昨日Y先生に

    お電話で

    お話ししましたら

    なんと

    今までの卒園生のことを

    家庭環境も含めて

    事細かく

    覚えていることを

    知って大変驚きました。


    まさにわが子を思いやるように


    私たちをはぐくみ見守ってくれた
    ということで
    本当に感謝です。




    昭和47年 冬季オリンピック札幌大会聖火ランナーを
    優健学園生たちも一人ひとり旗を作って
    迎えました。
    トワエモアの虹と雪のバラードを聞くたびに
    私はオリンピックで

    誰が活躍して金メダルをとったかということ
    以上に
    優健学園での

    旗作りと聖火リレー応援のこと
    を思い出します。


    昭和47年 毎年恒例の冬の雪上運動会にて
    スノースレーをすべり終えて
    雪上にておにぎりと豚汁をいただきました。
    この時のおにぎりと豚汁のおいしいこと
    格別でした。



    昭和46年夏 
    毎年恒例の洞爺湖サマーランドへのプール学習にて
    私は虚弱児度がA〜Dの中で
    Dでした。つまり
    虚弱児の中でも最も虚弱だとみなされたのです。

    そのため、プールに入ることが許されず
    さびしく見学するはめとなりました。
    くやしくて、みじめで、なりませんでした。
    後列の眼帯をかけた少年が私です。
    ランクA〜Cの児童たちが、
    うらやましくてなりませんでした。



     

    昭和47年 毎年恒例の春のアルトリ岬遠足の様子

    缶にザリガニなどを採っていれようと
    しているところです。

    (左手の眼帯少年が私)

    奥にいるめがねをかけた先生は
    N先生です。

    お米作りを教えてくれた

    先生です。

    温厚で愛に満ち溢れた
    怒るとおっかないですが

    皆から愛される
    父親的先生でした。

    私たちの

    人生で

    神様は

    私たちを成長させるために

    その人にふさわしい

    様々な

    訓練を

    通させられるのだなあと

    あらためて
    思わされます。

    私にとって
    そのひとつの訓練の場が

    優健だったということなのだなあと

    イエス様に

    改めて感謝します。

    訓練と思って耐え忍びなさい。
    神はあなたがたを子として扱っておられるのです。
    父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
    (新約聖書 ヘブル書12:7)

     にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 釧路情報へ にほんブログ村

    にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

    カテゴリ:- | 15:59 | comments(35) | trackbacks(0) | - | - |
    コメント
    長内さん、メール感謝します。ブログご覧いただき感謝です。
    同じ時期におらしたのですね。長谷さんは、なおもぜんそくがおありなのですね。季節の変わり目につき、どうぞ大切になさってくださいね。懐かしい思い出を共有できて嬉しく思います。これからもお時間がございましたら拙ブログお立ち寄りいただけると大変嬉しいです。
    | Hiro | 2017/04/04 4:39 PM |
    はじめまして。突然のメールをお許しください。
    私は山形さん、コメント欄の皆さんと同じく有珠優健学園に入園していました。
    期間は昭和46年夏から47年春までの8ヶ月間だと思います。
    40年以上前のことですから記憶が定かではありません。多分、同じ日に入園したのではないかと思います。
    私は1961年生まれ、入園は4年生だと思います。残念ながら山形さんの記憶が有りません。ごめんなさい。
    このようなかたちで当時、一緒に居た皆さんの近況が分かるとは思いもよりませんでした。懐かしい限りです。

    ブログに載っている46年洞爺湖サマーランド、私も同じ所で撮った写真が有ります。ランクはAに近いと思われプールに入っている写真が有ります。
    また、冬季オリンピック札幌大会聖火ランナーの応援、トワエモアの虹と雪のバラードは、覚えています。

    学校の記憶は、担当の先生は那波先生、同級生で女子生徒は田中さん、関口さん?、男子生徒は思い出せず・・・
    私は旧上磯町、現在の北斗市出身、今も北斗市に住んでいます。函館付近特有の方言で話をするのでクラスで笑われていたのは、懐かしい思い出です。
    北斗市在住ですので、コメント欄の高橋さんとは、近くに住まわれているのかもしれませんね。

    寮では、寮内放送、朝の乾布摩擦など断片的ですが覚えています。
    私自身、喘息で入園、退園後も残念ながら治らず今でも体をコントロールして長い付き合いとなっています。

    とりとめなく、思いつくままに書きましたので支離滅裂になり申し訳ございません。
    最後に、山形さん、コメント欄の皆さんのご健康をお祈り致しています。
    | 長内 | 2017/04/03 3:35 PM |
    高橋様、再びコメント感謝します。山の手での王選手とのフォークダンス素晴らしい思い出ですね。スポーツ選手の慰問は、本当に弱さをかかえた私たちにとって大きな励ましや勇気につながりますね。その一方で、共に学びあった仲間達がこの世を去っていく悲しみ、もうこの地上で会えなくなるという現実に接した時に、私たちの心はひどく痛みわななき心が折れて、その痛みが喘息発作として現れて、心も体も悲鳴をあげざるを得ない・・・。高橋さんのコメントを早朝読ませていただきながら、泣いています。そのような別れが突如として訪れるだけに、現実を受け入れるまでそうとうもがかざるをえませよね。山の手で糖尿病をわずらってムーンフェイス状態だったM君が、高等部に入り、北海道の学力コンクールで
    国語で全道1位をとったことがありました。「札幌南」「札幌北」という進学校よりも上に「山の手養護」という高校の名前が出た時に、あまりにも嬉しくて、M君の実家に祝福に行きました。M君は貧しい家庭で、おそらく医療費で家庭も逼迫されていたことでしょう。お父様はタクシー運転手を支えながら家庭をささえておられました。塾なんて行くお金もないM君は
    国語を勉強するのにたった一冊の薄い問題集だけを何回も何回も繰り返し解いていました。「え!これだけで全道一位になったの?」M君はおつきさんのような長髪でムーンフェイスいっぱい笑みを浮かべながら、「うん、そうだよ。」M君は今、どこでどうしているか・・・。生きていて欲しい、それが唯一の願いです。私たちにとって、名誉や肩書きや年収や家族のあるなしよりも、生かされて、微笑みあえることが、何にもまさる恵みであり喜びだよなあ、と思わされます。道南の北斗町で神の恵みの自然を相手に農業を営まれておられる高橋様のご家族が、1年の収穫の恵みを創造主なる神に感謝されながら微笑みつつ、年末年始、幸せに過ごされますようにお祈りいたします。ご自愛くださいませ。
    | Hiro | 2015/12/15 6:27 AM |
    お返事ありがとうございます&#10071;
    なぜか、うれしくてまた書いてます。
    是非、同窓会を音頭とって下さい。必ず参加させていただきます。

    山の手での王選手の話題、フオークダンス王選手と踊りました。サインもいただきました。楽しい思い出も多い中、友人とのお別れが一番辛かったかな、骨肉腫や心臓病で亡くなり、西札幌病院の床屋の帰り、ストレッチャーにシーツに包まれた方とすれ違い、ご両親が泣いていて、まさか昨日まで元気だった私の大切な友人だったとは、ショックでした。その晩から喘息発作がひどくなり自分も死んでしまうのか、心が弱くなってしまった記憶が今だに忘れられません。

    各病棟から夜中集まって肝だめし巡り、見つかって説教されたり、高等部に夜中遊びに行ったり、その友人達が突然亡くなるのは、やはりショックです。でもそのような経験が、今の自分を作ってくれたのかなって、山形さんのブログで改めて教えていただきました。

    みんなで思い出の写真を持ちより、いろんなお話を聞きたいですね。

    山形さんのブログを拝見しながら、毎日元気をもらいたいと思います。

    函館にもしお寄りの際は隣町の北斗市に在住してますのでお立ち寄り下さい。
    | 高橋よし乃 | 2015/12/14 9:55 PM |
    高橋様、コメント感謝します。ブログごらん頂き感謝いたします。私も優健を卒園してから、通常の中学校へいったものの発作続きで、山の手養護学校で少しお世話になりました。(似ていますね!)小野数馬先生は、私も小4の時の担任の先生としてお世話になりました。みんなから「おのちん、おのちん」と呼ばれて親しまれていました。板書の字がとてもていねいでかつ大きかったことを覚えています。始業前の「気をつけ!」「礼!」の時に必ず小野先生は、手の指をそらしてペンギンさんのような格好をされて、ユニークな先生でした。いつも穏やかな笑顔で、怒ることがほとんどありませんでしたねえ。実は
    あのサマーランド訪問の伝統は、私が小3までで、小4以降からは年中行事からははずれていたように記憶しています。
    そのかわりかな?有珠山登山遠足がありました。まだ噴火前だったので、銀沼がとてもきれいでした。山の手養護学校では、中1時代、担任は佐藤玲子先生でした。優健の布団生活が慣れていたので、ベッド生活はいかにも「病人らしい」雰囲気が漂い、抵抗感がありましたねえ。ずいぶんと、いたずらもしましたねえ。優健の保母さんは、結構厳しかったですが、山の手の看護婦さんは、穏やかな印象でしたねえ。ちなみに山の手養護は、毎年、プロ野球の王貞治選手が慰問に訪れていたのですが、なぜか私が入ってからは、来なくなってしまい、非常に残念だった記憶があります。優健は、喘息児が多かったですが、山の手には、糖尿病とか異なった疾病で苦しむ友人も
    多くて、本当に、みんな異なった種類の苦しみや、痛みや、不自由さと戦っているんだなあと思わされ視野が広げられる体験をしたと思います。それは将来私が大学で「養護学校教諭」の免許を取得する動機ともなりましたし、一時期、「養護学級」の担任として奉仕をしたり、また今、私が牧師をしている教会におられる多種多様なご病気で苦しむ方々に寄り添ってお仕えするための神様からの素晴らしいご褒美だったんだなあと、今は感謝しています。尊い農家のお仕事が祝福されますように、ご家族3人の皆様の幸せをお祈りしています。感謝をこめて!
    | Hiro | 2015/12/14 10:06 AM |
    突然のメール失礼します。

    優健が懐かしくて検索してたら山形牧師さんのブログを拝見して、当時の優健での出来事を思い出し、涙がでそうになりました。

    昭和46年3月からの1年間お世話になりました。
    当時は小学1年生で、突然両親と離れて集団生活になかなかとけこめなくて、お姉さんたちに面倒ばかりかけていました。
    両親が学園便り、両親に宛てた手紙、写真を大事に保管してくれて、今でも私の宝物です
    山形さんのブログの写真を見て似たような場面があり、サマーランドなど懐かしくて1人でいろいろ思い出してました。

    その後私は、昭和51年から52年まで山の手養護学校にお世話になりました。あの6病棟が懐かしいです。悪さもしたり、楽しい思い出もたくさんあります。今でも喘息とは仲良くお付き合いしてますよ


    小さな農家ですが息子と夫の3人で暮らしています。
    もちろん草花のアレルギーと闘いながらですが。

    これからもブログ拝見させて下さいね。楽しみにしてます。
    私の旧姓は青山です。昭和39年生まれです。

    ちなみに優健の担任は小野数馬先生でした。



    | 高橋よし乃 | 2015/12/14 12:57 AM |
    中川様、コメント感謝します。優子さん、懐かしいですね。覚えていますよ。特に懐かしい思い出のひとつは、卓球大会で、決勝戦で、私と優子さんがあたり、「ああ、これは楽勝だ」と思ったのですが、男が女の子相手に、本気出したら、それこそ格好悪いと思って、サーブする時も、変化球とか出さないで
    優子さんが取りやすいサーブをわざとしていたら、優子さんがバンバン打ってきて、あれよあれよという間に、負けてしまったということがありました。本気出して勝ったら、バツが悪いとは思ったのですが・・・・。今となっては懐かしい思い出です。あの当時の優健の保母さんで今ご健在の方で、私が連絡を取り合っているのは、吉村先生お一人です。ご高齢ですが、お元気です。あの当時のままです。友人巌君とは、年賀状のやりとりを根気よく続けましたね。しばらくは年賀状だけの関係でしたが、だんだん年をとると不思議と、会いたくなる思いがお互いに募るようで不思議なものですねえ。でも巌君以外では・・・そういえば、ちかし君は、このブログがきっかけで、ちかし君の方からメールくれましたねえ。それ以外では、うむむ・・・単発的な連絡だけで終わってしまっているかもしれませんねえ。愛知県ですかあ、遠いですねえ。でもインターネットで近くに感じることができるので感謝です。今日の道東は雪模様です。次回東京へ行くのは、今確定しているのは来年6月でしょうかねえ。刑務所教誨師の大会があって・・・。優健学園出身の方々集まれ〜と何かで発信できたらいいですねえ。あと思い出したのですは一時期「ゆびとま」というサイトで優健学園で検索をかけたら何人かの方と連絡がとれましたねえ。
    でも、数度のメールのやりとりで終わってしまっていますねえ。何はともあれ、どこかで皆さんでお会いできたらいいですねえ。優健学園は現在、高齢者施設になってしまったので、ひとつの提案ですが、あの有珠に古いバチェラー教会堂という歴史的に有名な教会があって(優健よりも古い!)あの教会堂に集合するという方法もありかも。私が現在牧師をしているので、あの教会堂貸してもらえるように交渉できると思います。
    (でも愛知からじゃ遠いですよねえ〜)
    | Hiro | 2015/11/24 5:48 PM |
    山形さん、お返事下さってありがとうございます。
    さて質問ですが、優健学園時代のご友人とは、どのようにして
    ご連絡取れたのですか?
    退園された後も、ずーっと連絡取り合っていたとか?
    先生ともご交流があるようなので驚いています!
    どのようにしたら皆さんに会えるのかしら??

    私は退園後、一度だけ登別に住んでいる優子ちゃんの家に
    お泊りしたことがありますが連絡取れず…です。
    あ、優子ちゃんは山形さんと同学年ですよ!
    苗字書けませんが覚えていらっしゃいますか?
    メガネかけて髪を両サイドに縛ってた女の子ですが。

    当方、主人の転勤で愛知県にいますが東京には、よく遊びに行きますので山形さんが上京する時は是非連絡下さい!
    …っていうのは、ずうずうしいですね(笑)
    | 中川(旧姓) | 2015/11/24 12:06 PM |
    中川(旧姓)さま、お懐かしい思い出分かち合って下さり感謝します。先月、東京で優健小4時代の友人に会いました。今でもかばんには、気管支拡張剤の吸入器が入っていました。同じ種類のものを私も使用しているので、余計に親近感が沸いたものです。中川様は今はお元気でご活躍のことと思います。いつか優健学園出身の方々の「お元気です会」みたいなものを
    開きたいですねえ。
    | Hiro | 2015/11/16 4:19 PM |
    突然すみません。
    ゆうべ、優健学園の夢を見てPCで検索したら山形さんのブログを見つけびっくりしてます。
    私は、山形さんと同時期に1年半いました。
    1学年下です。山形さんの事、よく覚えてますよ!
    みなさんほど、鮮明に出てきませんが乾布摩擦やドッチボールをよくしてた事、布団を押入れに いかに早くきれいに出し入れするかに闘志を燃やしていた自分…等 思い出します。
    私は偏食の為、3年生で18キロの体重という骨皮筋子でした。
    いつも食堂で最後まで残されて食べていました。
    朝食が食べ切れていないのに、さらに昼食…おやつ…と、テーブルにどんどん増えて夕方には「もう夕飯が始まるから部屋に戻りなさい」と先生が根負けするありさまでした。
    でも、今現在何でも食べられるのは優健学園のおかげです。
    懐かしいです!本当にみなさんに会いたいです!
    | 中川(旧姓) | 2015/11/16 1:09 PM |
    こっすんさん、コメント感謝します。こっすんさんも新婚旅行や様々な機会にネブライザーを携行されたのですね。お子様が誕生されてから、快方へ向かわれたのは、本当に幸いでしたね。神様の憐れみと思います。我家は長男が喘息で、2歳〜中学生の頃まで、風邪をひいては喘息発作を起こし、電動式携帯用吸入器を購入して、家族旅行の際は、その大きな機械と、メプチン、インタールなどを持ち運びました。私自身は、中学3年頃からストメリンDを携行し、大学時代からサルタノールを携行し、留学中は、テオドールのほかに、経口ステロイド(デキサメタゾン)などを特効薬としてイザという時は使用しました。ブラジルやスペイン滞在中は、薬局で、経口ステロイドを容易に入手できたので驚きました。(貧しくて病院に罹れない患者さんのため)日本の薬事法では考えられませんよね。英国で吸入ステロイドが出始めていて、使用して効き目があったのに、日本に帰国したら、まだ認可されておらず、フルタイド認可に時間がかかったのには驚きました。学問的には、吸入ステロイドの副作用が極めて軽微なものであることが欧米で立証されていながら、日本では、新薬を認可することで、それまで用いられて汎用されていた薬を扱う製薬会社からの圧力などがあったのかと思ったほどです。今でこそようやく吸入ステロイドが、中程度の喘息患者の第1選択薬となりましたが、そこにいたるまでも、ずいぶんと時間がかかりましたね。私も現在シムビコートでしのがせていただいていて感謝です。喘息で苦しむこどもたちの姿を見るのは本当に苦しいですよね。わが子が幼い頃に発作になりかけた時は、速攻で薬を飲ませたり、吸入をして、極力早い段階で処置しました。私たちが、小さいころは、できるだけ薬を飲まないで根性で治せ的な教育がなされ、貴重な体力を消耗してへとへとになりましたね。あれは今だったら「喘息児虐待」ですよね。喘鳴なく呼吸できることがどれほどうれしいことか、どれほど感謝なことか、私たち喘息を体験している者だけが味わえる恵みなのかも知れませんね。これからも、こっすんさんが、多くのご不安をかかえておられる患者さんのお声を親身になって傾聴される優しい薬剤師さんとして、また慰めに満ちたブロガーさんとして、主イエス様に用いられますようにお祈りし応援しています!どうぞご自愛下さいませ!
    | Hiro | 2014/04/25 12:02 AM |
    お返事ありがとうございました。わかってもらえる人に話せるって、嬉しい事でした。私は、1年で退園はしましたが、喘息は治りはせず、入院は数えきれず、1度は「もう駄目かもしれません」と言われた事もありました。その時、私は、黒いSLの後部ドアのような、トンネルの入り口のような所に入っていこうとしましたが、作業服のおじさんと、着物姿の女性が入って、私の番と思ったらサッと入り口がしまってしまい、気がつくと病院のベッドで、周りを医師、看護師、両親が囲んでいて、「みんな、どうしたの?私は、眠って夢を見ていたの」と思いました。修学旅行は、重いネブライザー持参で、それは、新婚旅行でもでした。小児喘息の4人に3人は、軽快するそうですが、私は、残りの1人でした。でも、山形君のブログを読んだら、亡くなった子も何人もいたのですね・・・。残念です。今なら、そんなことは無いでしょうに。私は、子供を授かってから、喘息が軽くなりました。シムビコートを使う位です。次男は私の体質を受け継いでしまいましたが、中学生になってからは落ち着いています。また、長々書いてしまいすみません。私もブログを書いています。今まで、書きたかったけど書けなかった優健学園の事を、書きたくなりました。泣きながら書くことになりますが、言葉にしてしまいたいのと、今、苦しんでいる方が、読んでくれて、何かの役にたつことが有るかも、と思って。アメブロの「アンのブログ~のんびりウサギ」といいます。ぜひ、いらしてください。
    | こっすん | 2014/04/24 1:08 AM |
    こっすんさん、コメントありがとうございました。涙ぐみながら読ませていただきました。私だけでなかったんだ、こっすんさんは、わたしよりも、つらいところを通られたように思います。あの時は、がまんするしかなかったですよねえ。家庭への手紙も「おうちの皆さん、お元気ですか。僕も元気です。楽しくやっています。」的な手紙でしたよね。でも、何十年たった今でも、自分の気持ちを表現することをとおして、その心の痛みはやわらぎ、いやされていくと信じます。実は、保母さんのY先生に、どれほどいじめ問題でつらい思いをしたか、後年、正直にお話したことがありました。すると、Y先生は、驚いて「そうとは、知らなかったわ・・・本当にごめんなさい。」と謝ってくださいました。今、こっすんさんは、薬剤師さんですか。素晴らしいですね。今は本当に、喘息治療薬の効き目がすごいですよね。多くの薬剤師さんや、薬品会社さんのご努力には本当に感謝します。これからも、患者さんたちに、こっすんさんをとおして優しさといやしが流れていきますようにお祈りしています。感謝を込めて。
    | Hiro | 2014/04/22 10:06 PM |
    山形君だ、とすぐわかりました。あなたが4年生の時、私は3年生で、1年間だけ、優健学園にいました。山形君が、眼帯をしていたのを覚えています。最近買ったCDに「椰子の実」という曲が入っていて、これは優健学園で、消灯になった後、「シンドバッドの冒険」やら、「キッチョムさん」のお話や、童謡などのレコードを、放送してもらえるのが楽しみで、その時好きだった歌でした。故郷に帰る日はいつか・・・今でも、これを聞くと涙がでそうになります。曲から、学園の事を思い出し、何気なく検索したら、あなたのブログを見つけました。私たち女子の中でも、陰湿なイジメはありました。男子もそうでしたか。そして、ハンサムで優等生なボスは、きっと彼ですね。私は、食堂の席が彼のいるテーブルで、男子ばかりの中に、女子1人だった時がありました。初めはカッコいい彼のテーブルで嬉しかったのですが、ある時、彼が、ほかの子から美味しいおかずをもらっているのを見て(あれは、ボスがまきあげていたんですね?)それを注意してから、意地悪されるようになり、ソースや醤油を回してもらえなくなったのを50才の今も覚えているんですよ。何もかけないキャベツの千切りを、なにくわぬ顔で食べるので精一杯でした。学園は、楽しい事も有ったけれど、普通に家にいれば体験しなくてすんだ悲しいことも多く、本当の気落ちを書けない家への手紙や、喘息は甘えの気持ちが有るから起きると責められた事や、偏食の子が泣きながら食事をしていたことや、忘れられない事です。書きながら、涙が止まりません。懐かしい気持ちは有りますが、もし同窓会があっても参加する気になれません。あの時9才の私は、後から、学園には、喘息や偏食の子ばかりではなく、家庭に何か有って預けられていた子がいたのでは・・・と考えあたり、そんな施設だと親は知らないで、私からの手紙が嘘だったとも知らないで、家に戻ってから、1年の空白が恐ろしく、本当の話をしたいけれど、知れば親が悲しむだろうと思うと、何も言えず、自分が他の子と違ってしまった事を悲しんでいました。もう、あの学園は無いのですね。いつか、有珠の桜を見に行きたいと思っています。亀岩、懐かしいです。岩の側に山吹が咲いていました。丘に上ると八重桜がありました。あなたは牧師さんになられたのですね。私は、薬剤師になりました。喘息のお子さんが、苦しいのを紛らわそうと、はしゃいだり、鼻歌を歌ったりするのがわかります。今は、良い薬があって、なにも小さな子が親元を離れ、発作がおきても我慢を強いられる事が無いことが嬉しいです。長々と申し訳ありません。また、ブログにお邪魔させていただきたいと思います。
    | こっすん | 2014/04/22 1:53 AM |
    秋山様
    懐かしい思い出、大変記憶が鮮明で驚きました。いつか同窓会ができたら素晴らしいですね。今も健やかに生かしていただいていることに感謝ですね。これからもどうかお元気でいてくださいね。
    | Hiro | 2014/04/21 10:57 PM |
    あれからどうなっているのかな~と検索したら懐かしい写真をちりばめた貴方のページを見つけました。
    吉村さん、元気なんですね!
    私がお会いしたのは25年前に金物屋に直接行って吉村さんの部屋で長々と話しこみました。
    写真の右側は杉山さん?
    しんめいさんとか三島さんと言う方もいたかな。
    学校の担任は那河(字違うかな)先生でした。
    同級生は、中川君、畑中君、横山君、池田君、近藤君、田中さんがよく記憶に残ってます。
    貴方ともお会いしていて、印象的なのは夏休み帰省の電車でとなりになったことかな~(笑)
    お互いに年月を重ね、全く違う場所で生活していますが、おなじ空の下で生きているんだなと痛感しました。本当にありがとう!
    | 秋山 | 2014/04/20 9:25 AM |
    バンダナ様、コメントありがとうございます。
    同じ時期に学園生活をともにされたのですね。今まで生きてこられたことを知って本当にうれしく思います。今はお元気でお過ごしでしょうか?どうぞ健やかに平安に歩まれますように。またのご連絡を楽しみにお待ちしております。バンダナさんの上に主イエスの祝福がありますように!
    | Hiro | 2014/02/15 5:28 PM |
    突然のメール失礼します。
    ネットに掲載されている写真が私の持っている写真と同じでしたのでついメールを致しました。
    小学生の一年生~二年生の間優健学園にお世話になりました。
    昭和39年生まれですので同時期に学園に居たと思います。
    また、改めてメール致します。
    | バンダナ | 2014/02/14 10:07 PM |
    中島様
    おひさしぶりです。コメント感謝します。そうでしたか!中島さんも、有健→山の手というコースをたどられたのですね。山の手では、社会科の佐藤玲子(新婚の先生)先生が担任でした。中島さんは山の手3年間ということで、長い闘病生活を送られたのですね。今は、お体のほうはいかがでしょうか?寒い折、どうぞ健やかに過ごされますように、イエス様の祝福が中島様の上にありますようにお祈りします。
    | Hiro | 2014/01/21 7:58 AM |
    よしかわ様
    はじめまして。コメントありがとうございます。私の先輩からのありがたいメールをとてもうれしく読ませていただきました。吉村先生も大変お元気なようで何よりです。きっと先生に撮りましても教え子の来訪は、何よりの励ましになられていることと思います。景色が変わっても、あの時の思い出は蘇ってきますよね。前回有珠に行った時にバチェラー教会堂に行きました。有健時代にはいったことがありませんでしたが、きっと私たちのために祈ってくれた方々がおられたのだろうなあと感慨深い思いを与えられました。よしかわ様が
    釧路方面へ来られる際はぜひご一報くださいませ。寒い折ご自愛くださいますように。イエス様からの祝福が吉川様の上に豊かにありますように!
    | Hiro | 2014/01/21 7:52 AM |
    2013年10月3日に書き込みをさせていただきました中島です。
    山形さんは山の手養護学校にもいらしたのですね。私も優健
    学園を卒業後すぐに山の手養護学校に入学し中学3年間在籍(昭和43年〜昭和45年)しました。若松先生、那波先生、久保田先生、篠村先生を覚えています。
    | 中島昌樹 | 2014/01/20 3:17 PM |
     はじめまして。突然のメールをお許しください。私はあなたと同じく有珠優健学園に小学校5年の1年だけ入園していたものです。昭和34年生まれですので多分、貴方とはすれ違いだと思います。現在転勤で伊達の近くに単身赴任中ですが、吉村先生とは先だって連絡を取り、近いうちにお邪魔する予定です。学生時代、その後も数回に渡り訪問させていただきましたが、先生はあの頃のバイタリティーを持ったままです。いつまでも私の心のよりどころです。
     私は優健学園の開園時の校舎と鉄筋の校舎を経験しました。旧校舎はしばらく学園の少し海側にユースホステルとして建っていました。転勤してから周辺を探索しました。景色は変わっていないのですが、ブランコがあった丘や裏山はもう人を拒んで中に入っていけなかったのは残念でした。
     長々と語ってしまいましたが今後ともよろしくお願いいたします。
    | よしかわ | 2014/01/19 6:32 PM |
    中島様、はじめまして。コメント感謝します。私の先輩にあたられますね。お会いしていないのに、とても懐かしく感じさせられております。少しでも、当時を思い出せる景観に出会うとうれしゅうございますよね。日赤から来られていた看護師さん、私の時代は旧姓山本さん、ご結婚されて高橋さんになられていたかと記憶を思いめぐらしている所でございます。私の時代は、今日のように喘息薬というのが、それほど開発されておりませんでしたから、医務室へ行って、劇的に回復するということが少なかったかなあと思います。ある時、「この注射で良くなるから」と言われて太い血管注射をされて、楽になったと思いましたら、直後に実は、その液が「ブドウ糖」だったことがわかり、急に苦しくなった、という思い出も蘇ってきます。中島様は、現在はお体は、お元気でらっしゃいますか?時節柄、気温の変化が激しいので、どうぞご自愛くださいますように。釧路は今日も快晴の朝を迎えています。道東より感謝を込めて。
    | Hiro | 2013/10/04 7:19 AM |
    私は今関東で暮らしておりますが、昭和42年〜43年小学6年の1年間お世話になりました。13年ほど前に札幌転勤の折行ってみましたが、当時の建物ではありませんでしたが運動場に接している土手が大変懐かしく思い出されました。また名前は忘れましたが日赤から来られていた看護婦さんが少し怖かった思い出があります。学園責任者は石田先生と記憶しています。テレビではウルトラQが始まった頃でした。大変懐かしいです。
    | 中島昌樹 | 2013/10/03 2:11 PM |
    てつや様、コメント感謝します。
    懐かしい思い出のご紹介をありがとうございます。今年の6月に有珠に訪問した際に
    学園の建物は、跡形もなくなり老人ホームが建てられていました。ただ運動場の土手の大木や大きな岩の位置は変わっておりませんでした。
    時を経て変わる風景と変わらない風景のコントラストもこれまた趣き深さを感じさせられました。
    私達の心にある優健での楽しい思い出は色あせることがありませんようにと祈らされます。
    | Hiro | 2013/08/30 1:35 PM |
    平成2年~3年の間小5~小6の夏から夏の1年間優健学園で過ごしました。自分は99年に当時19才で免許を取得し、「いつか自分の運転で有珠に遊びに行きたい」と思ってました。ところが2000年3月31日に僕らの知ってる有珠山が噴火してしまいましたが、翌年網走から有珠まで車で優健を訪れました。退園から10年ぶりの訪問でしたが当時の先生の大半がまだ居ました。吉村先生は退職されてましたが、自宅へ訪問しました。優健の行事でよく遊びに行った虻田町のキジ公園は有珠山の噴火でやられてしまった様です。今、優健の建物は無いですがあの周辺の雰囲気は変わらないですね。今年も伊達温泉に宿泊地を置きあの辺りを訪れました。優健の建物が無くとも周辺から眺める有珠山等の雰囲気が当時の記憶を蘇らせてくれますね。
    | てつや | 2013/08/30 4:20 AM |
    管理者の承認待ちコメントです。
    | - | 2013/07/17 4:21 PM |
    くん様
    コメント感謝します。吉村先生宅に先週お訪ねしました。先生はお元気そうでした。あの甲高い声は、今も健在です。声だけ聞くと40年前と変わりません。大変な勉強家でよく本を読まれているようでした。くんさんもお訪ねされると大変喜ぶことと思いますよ。
    | Hiro | 2013/06/24 8:41 PM |
    初めまして。
    私は、昭和63年秋から半年間入所しておりました。
    吉村先生懐かしいですね!
    本当に怖かったと同時に、心優しい先生でした。
    今では、同級生みんなとは連絡がつかない状況。
    10年くらい前、一度行ってみましたが、建物は無く、更地で寂しくなったのを覚えています。

    思春期には家族を恨んだりしましたが、今は自分だけのとても良い思い出となっています。

    吉村先生に会いたいな〜!
    | くん | 2013/06/20 6:03 PM |
    平成6年から様、コメント感謝します。9年間もの長きにわたって優健におられたとは驚きです。思い出も沢山詰まっておられることでしょうねえ。優健がなくなってしまってもその思い出はいつまでもなくなりませんよね。いつか同窓会を開きたいですよね。今は、お元気でしらっしゃるのでしょうか?神さまの祝福があなたとともにありますように!
    | Hiro | 2013/05/17 7:17 AM |
    私は平成6年からほぼ9年間生活した、優健歴史に残る大御所です。
    昭和のお話は知りませんでしたが、私がいる間に変貌をとげた時代です。
    今は同級生も全く連絡つかずですが、何かきっかけで皆が交流できるのを夢見ています。
    | 平成6年から | 2013/05/15 11:31 AM |
    Ueda様、はじめまして。大先輩からのメールに大変感激いたしております。どうか同窓会が祝福されますように。お集まりになられる皆様が健やかに幸せな日々を送られますように釧路の地よりお祈りさせていただきます。
    | Hiro | 2013/04/02 9:18 AM |
    こんばんわ 私は昭和27年入園した第2期生です。
    今年6月に26〜27年に在籍の1〜3期の同窓会をひらく準備を
    しています。
    何か有珠優健学園の情報はないかとネットサーフィンしてい
    てここへたどり着きました。
    私たちの仲間は既に70歳UPですが掲載の行事・写真など
    懐かしく拝見いたしました。
    大先輩になりますが、又覗いてみようと思います(^o^)/
    | Tarou Ueda | 2013/04/01 10:58 PM |
    takamaru様、コメント感謝します。吉村先生とは昨晩電話で結構話しましたが、昔と変わらずお元気そうでしたよ。笑い方も全く変わらず、頭脳も昔と変わらず明晰で、圧倒されるほどのエネルギーを感じましたよ。ご兄弟が次々に亡くなられてとても気落ちされていましたが、優健出身の私たちからの手紙とかメールとかがとても大きな心のささえとなっておられるご様子でしたよ。有健の建物はなくなっても、吉川先生がいる限り、有健はまだ「生きている」って感じましたよ。写真は徐々にアップしていく予定です。ほかの有健出身者もアップしてくれて共有できると楽しいですね。
    | Hiro | 2013/03/31 9:37 PM |
    うわぁっぁぁぁぁぁ・・・・・・
    めっつちゃ懐かしい写真です
    有健の建物が・・・・・
    グラウンド、毎朝 冬以外は走っていましたよね
    吉村先生・・ご健在なのでしょうか?

    次回もお写真楽しみにしていますので
    | takamaru | 2013/03/31 7:18 PM |
    コメントする









    この記事のトラックバックURL
    http://yamagata.fukuinkan.sunnyday.jp/trackback/1583323
    トラックバック