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「語る側」から「聴く側」へ
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    このたび
    私たちの教会に
    本州方面から
    講師Sさんをお招きして
    セミナーの
    時を持ちました。

    とても楽しい
    中身の深い
    充実した
    時となりました。

    Sさんは
    様々な
    人生の遍歴を
    経られた方で
    学ばされるところ大でした。

    私は牧師として
    ふだんは
    自ら語る側になることが
    多いのですが

    今回は
    聞くことを
    とおして

    様々な気づきが
    与えられて
    感謝に堪えません。

    人の語りかけを
    聞くことの大切さ

    神の語りかけを
    聞くことの大切さ

    それを
    しみじみと
    味わう事ができて
    余韻が今も尚
    残っています。


    耳を傾けて、
    知恵のある者の
    ことばを聞け。
    あなたの心を
    私の知識に向けよ。
    (旧約聖書 箴言22:17)

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    カテゴリ:- | 20:33 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
    コメント
    Mスクエア様、尊いコメント感謝します。確かに聖書は、史上最強の判断基準なのですが、それを解釈したり、理解したり、実践するのは、言わずもがな「罪深き人間」であることも事実です。あくまでも「聖書」が正しさの基準なのであって「聖書を信じる私という人間」が正しさの基準にならないように自戒しないととんでもない過ちをおかす私たちです。あのブッシュさんは、信じがたい話ですが、聖書を読んでイラク戦争を決断したとおっしゃっておられますし、オバマさんも「あなたの敵をも愛しなさい」と命じる聖書の神を信じるといいながら、オサマビンラディン氏の殺害を命じました。それに対して、アメリカの多くの牧師からの非難の訴えの声はほとんど聞こえてきません。民主主義と言うのは、聞こえはいいですが、神の声にさえも耳を傾けない民主主義であるとすれば、それはヒトラーの全体主義とそれほど大差はないと考えます。正しさの基準であるはずの聖書が、為政者をはじめ、私たち人間にとって都合の良くない箇所には耳を傾けず、我田引水な解釈に基づく適用の道具と化してしまうことに危惧を覚えます。聖書の一部だけが拡大解釈されて文脈を無視した適用がされるこもあります。(輸血禁止、献血禁止を聖書から唱える教え)聖書読む際に、いつも自分の罪深さ、不完全さを自覚する必要があります。大切なことは、すべての方が聖書をとおして、救い主イエス様を信じて、罪の赦しと永遠のいのちにあずかることなのですね。
    | Hiro | 2011/05/30 11:32 AM |
    山形牧師様

     ブログを、いつもありがたく 拝読しております。
    立場を変えて、話す側から聞く側になると、改めていろんな発見がありますよね。

     私の場合、単純なんで 人の話をすぐに信じてしまうのですが、最近の世間は 「お話のうまい人」がたくさん出てきて、何が本当なのか 本当に信じて大丈夫なのか 結構迷うことがあります。

     私の場合の判断基準は、「子供に聞いて、あるいは子供に話して、善か否か」です。
     牧師様は 聖書という史上最強の判断基準を持ち、実行されているので、迷われることはないでしょうが、私のような小市民は、前記の判断基準です。

     やはり、もっと多くの人々が、純真な子供の気持ちで、物事を考えるようにならないかなあと つくずく思います。
    「人間が万能の神」と勘違いしている多くの大人たちに、科学者たちに、それ以上の大きな畏れのある存在があることを、もっと知ってもらいたいものです。
    | Mスクエア | 2011/05/30 11:05 AM |
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