「更生保護」
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    2019.4.19

    昨日は釧路地区保護司会総会が

    行われました。

     

    新年度の役員さんが

    決まりました。

     

    お働きが祝福されますように

     

    保護司(ほごし)は、

    保護司法(1〜5条、7〜9条、11〜18条)

    ・更生保護法(32条、61条、64条)に基づき、

    法務大臣から委嘱を受けた非常勤の一般職国家公務員

    (人事院指令14-3で指定された非常勤国家公務員、無給)で、

    犯罪や非行に陥った人の更生を任務とする。

     

    私が保護司を志したきっかけは

    刑務所の教誨師の働きをしていて

     

    教誨師が直面する

    制度上の

    「制約」「壁」を

    痛感したことでした。

     

     

    教誨師は

    刑務所で

    希望する受刑者の方々に

    かかわりますが、

     

    刑務所から

    娑婆の世界に帰られた方々と

    継続的にかかわることは

    困難です。

     

    教誨師には

    自分の宗教教誨を受けておられる方が

    いつ出所するかは

    知らされないのです。

     

    受刑者の髪が伸びてきたら

    そろそろかなと

    想像する程度です。

    (通常坊主刈りで

    出所が近いと

    刈られなくなるからです。)

     

    かつて

    私の宗教教誨に

    熱心に出席された方が仮出所され

    すぐタクシーで教会にかけつけて

    礼拝に出席されて

    その後

    某更生保護施設に

    入所された際

     

    その元受刑者の

    連絡を取ろうとして

    施設担当者の方に

    連絡を取り

    教誨師として

    長くかかわっていたことなども

    お伝えしたのですが

     

    「個人情報なので

    お答えしかねます」

     

    と言われて

    かかわりが遮断されてしまった

    ことがありました。

     

    日本の現状の

    更生保護のしくみでは

     

    対象者にかかわりがある者同士の

    ネットワークが

    脆弱であることを

    痛感させられました。

     

    本当に真剣に

    更生保護を考えるならば

     

    かかわり合う者同士の

    連係が緊密であることが

    望ましいことだと

    思うのですが・・・

     

    インターネットの発達により

    様々な分野の人々が

    共通の目標、目的のために

    つながり合うことが常識となっている

    現代社会にあって

     

     

    その流れに

    逆行するかのように

     

    更生保護を巡る人的つながりに

    ついていえば

    不十分かなあという印象を

    もたされています。

     

    もちろん受刑者の方々の

    人権を最大限に確保する

    (秘匿する)と

    いう意味での

    個人情報保護の大切さは

    言わずもがなですが

     

    刑務所の中の人とかかわるには

    「教誨師」

     

    刑務所から出た人

    もしくは執行猶予中の人と

    かかわるには

    「保護司」

     

    ・・・ということで保護司を

    させていただくことになった

    次第です。

     

    「教誨師」は「刑務官」との連携の働き

     

    「保護司」は「保護観察官」との連携の働き

     

    この世の中

    一人でできることなど

     

    何もないことを

    改めて覚えさせられます。

     

    保護司となって

    同じ保護司の皆さんと

    お知り合いになれて

    つながりをもたせていただけることも

    大きな恵み。

     

    聖書によれば

    人間はみな、神の前に罪人(つみびと)

    聖書の「つみ」とは

    「的外れ」という意味

     

    創造主のデザイン通り

    生きていないことが罪

     

    罪を犯すから罪びとなのではなくて

    罪びとだから罪を犯す

    それが私たち

     

    いつも

    塀の中の人とお話していて

    「なぜ、この人が塀の中にいて

    私が外にいるのか?」

     

    保護司をしていて

    対象者の方と面接をしていて

    「なんで、この人が

    面接を受けていて

    私が面接をする側なのか?」

    そう思うことがしばしばあります。

     

    神様の前には

    同じ罪びと

     

    たまたま

    何かの条件が重なりあって

     

    彼と私の立場が

    いまの立場であって

     

    いつ逆転していても

    決しておかしくないと

    思わされます。

     

    もちろん

    一口に罪と言っても

    法律的な罪

    道徳・倫理的な罪

    そして霊的な罪

    と3つに大別されるといってもいいでしょう。

     

    最大の罪は

    何ですかと言われれば・・

     

    うーむ

    一言で言うと

     

    創造主なる神の愛を

    信じないこと

    神の愛に背を向けて

    生きていることでしょうか

     

    いずれにしても

     

    わたしたちが罪から

    離れて

    生きるため

     

    主イエスは

    十字架で

    私たちの罪を

    背負われて

    死んでよみがえられました。

     

    そういう点で

    更生保護の

    見えざる最高唯一の担い手は

    主イエス

     

    人を本当の意味で

    罪から立ち直らせる原動力は

     

    キリストに見る

    命がけの愛

    犠牲の愛

    無償の愛

    真実の愛にほかならない。


    キリストは自ら十字架の上で、

    私たちの罪をその身に負われた。

    それは、私たちが罪を離れ、

    義のために生きるため。

    その打ち傷のゆえに、

    あなたがたは癒やされた
    (新約聖書 1ペテロ2:24)

     

    明日はイースターサンデー

    私たちの生き方を矯正する

    神のことばが

    世界中のキリスト教会で

    語られます。

     

    教会には

    主イエスと言う目に見えない

    保護司さんがおられて

    私たちを悪の力、闇の力から

    保護してくださいます。

     

    保護司同士の会話の中で

    よく「クスリの人は

    繰り返すから難しいよね〜」という言葉を

    聴きます。

     

    わたしは

    うなずきながらも

    内心では

     

    「主イエスにとっては

    お茶の子さいさいなんですけどね〜」

     

     イエスは言われた。

    「人にはできないことが、神にはできるのです。」

    (新約聖書 ルカの福音書18:27)
     

     

    昨日は

    国会でギャンブル依存症対策に

    関する法律が通った報道を目にしましたが

     

    最近

    教会に足を踏み入れて

    解放されたという

    体験談を聴きました。

     

    その理由を

    「科学的」には証明することは

    困難でしょうが

     

    聖書は

    自ら証言します。


    聖書はすべて神の霊感によるもので、

    教えと戒めと矯正と義の訓練のために

    有益です。
    (新約聖書 競謄皀藤魁В隠供

     

     

    今釧路市内で

    何らかの依存症で

    苦しんでおられる方が

    おられて

     

    なにをやっても

    らちがあかないという方が

     

    明日のキリスト復活記念礼拝に

    導かれて

    玄関に足を踏み入れただけで

    主イエスの愛にふれらて

     

    素晴らしい変革がスタートすることを

    期待してお祈りしています。

     

    矯正教育についての歴史について

    合間を縫って少しずつ学んでいます・・・

     

     

    でもこの年齢になると

    どんどん記憶が

    抜けて行く〜

     

     

    これは更生保護にかかわる人の

    必読書

    20代のときに読んだのですが・・・

    抜けてる〜抜けてる〜

     

    これは興味深い!

     

    洋行帰りの

    内務省官吏樺戸集治監の

    第三典獄(今で言う刑務所長)

    大井上輝前(てるちか)が

    明治24年

    受刑者の教化のために

    ベースボール(当時は野球と言う訳語は存在せず)

    とキリスト教精神を取り入れたという事実に

    興味を抱いた著者が

    調べ上げた労作

     

    北海道の更生保護の歴史は

    興味深いです。

     

    わたしたち道民が使う

    幹線道はほぼ

     

    明治時代

    本州から連れて来られた

    囚人の方々の労苦によって

    開かれたもの・・・

     

    「囚人の方々のおかげで・・・」

    という感謝の思いも

    我々北海道民は

    運転する時に

    忘れてはならないよなあと

    思わされます・・・

     

     

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    「満月」そして「グッド・フライデー」
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      2019.4.18(木)

      昨晩のムーンライト

      美しかったですね〜

       

      昨晩は

      釧路町のコミセンで

      ゴスペルクワイヤーの定例練習

       

      クワイヤーの皆さんが唄う

      ルック アップ トゥ ザ スカイ〜

      を聴きながら

       

      窓辺に行って

      夜空を見上げさせていただき

      一人で感動

       

      そして

       

      今晩がいよいよ

      暦の上での

      満月

       

      釧路は現在

      曇っているので、今晩どうでしょうねえ。

       

       

       

       

       

      コンデジ(コンパクト・デジタルカメラ)でもきれい

       

      よくこの写真を(角度を変えながら)凝視すると

      月を中心に赤い十字架が

      見えませんか!?

       

      今日は「グッド・フライデー」

       

      全世界の教会で

      イエスキリストが

      私たちの罪の身代りに

      十字架で刑罰を

      お受け下さったことを記念している日です。

       

      イエスキリストの苦難を

      覚えるために

      この日に断食される方も多い

      (私は今朝しっかり朝食とらせていただきましたが)

       

      救い主が

      十字架にかかられたのだから

       

      不吉な日で

      「バッド・フライデー」(悪い日)じゃないの?

      なんでグッドなの?

      そう思う方も

      おられることでしょう。

       

      主イエスが十字架に

      かからなければ

       

      信じる者の罪が

      贖われることは決して決してなかった・・・

       

      主イエスが十字架にかかることを

      通して

      私たちがいのちがけで

      愛されていることが

      初めてわかった・・・

       

      私たちの人生

       

      「このことがなければ・・・」

      「あのことさえなければ・・・」

       

      と思うことも

       

      見方を変えると

       

      「いや、このことがあったからこそ・・・」

      「いや、あのことのおかげで・・・」

       

      と気づけることが

      きっと

      あるはず

       

      忌まわしい出来事

      その過去の事実は変わらなくても

       

      その事実にこめられた意味が

      変わることはある

       

      写真のフレームを変えることで

      写真の見え方が

      変わってくるように

       

      「神は愛である」

      というフレームの中で

       

      私たちが体験しうる

      すべての営み

      (過去、現在、未来)を

      見直すことが許されている。

       

      グッドフライデーの出来事

       

      イエスキリストが

      紀元30年4月7日(or8日)

      午前9時に十字架にかかられ

      午後3時に息を引き取られる

      壮絶な9時間の出来事は

       

      人類の歴史の意味を

      大きく変える出来事に

      なったばかりでなく

       

      それを信じるわたしたち一人一人の

      人生という歴史も

      内的に変革させる

      歴史的真実

       

      今から20数年前

       

      釧路市内で

      人目を避け(視線恐怖)

      自殺願望で

      苦しまれていたAさんにとって

      唯一安心・安全と思えた場所は

      「警察署」か「病院のロビー」の

      2か所だけでした。

       

      そんなAさんが

      聖書を通して

      キリストの十字架の史実にこめられた

      本当の意味を知って

      こう言ったのを

      鮮明に覚えています。

       

      「やまがたさん、イエスキリストが

      ぼくのために死んでくれたってことは

      ぼくは生きてていいってことなんですね。」

       

      ちょうどAさんと

      一緒に乗っていた車が

      北大通りから

      幣舞橋を通過して

      時計台のある

      富士見坂に

      差し掛かるところで

       

      Aさんが

      何か宝ものでも

      発見したかのように

      興奮しながら

      そう言ったを・・・。

       

      Aさんは

      生まれて初めて

      「生きてていいんだ〜」

      ということに気づかれ

       

      青天の霹靂のような気持ちに

      なられて

      間もなく

      洗礼を受けられたばかりか

       

      その年のクリスマスに

      なんと、

      私が訪問させていただいている

      釧路刑務所講堂で

       

      集まった

      受刑者の皆さんたちに向かって

      堂々と

      自分の内面に起こった変化について

      の体験を語りました。

       

      それまでは

      多くの人の

      視線恐怖に

      さいなまされてきたAさん

      であったのに

       

      十字架で死んでよみがえられた

      イエスキリストを

      信じることを通して

       

      たくさんの受刑者の視線に

      さらされることに

      怯えるどころか

       

      むしろ

      主イエスの愛のまなざしで

      彼らを

      見つめる祝福の存在へと

      変えられたのです。

       

      イエスキリストを

      信じるってことは・・・

       

      Aさんのように

      創造主である神と出会うことを通して

      健全な自己肯定感が

      回復され

      内的な変革がなされて

      生き方が

      変えられるということです。

       

      自己肯定感を

      安定させる類の

       

      「自己啓発本」

      「自己肯定ブログ・サイト」

      「自己肯定セミナー」

      「自己啓発プログラム」

       

      は巷に

      あふれていますが

       

      真の意味での自己肯定感は

      自分をデザインされた創造主との

      出会いを通して

      与えられるもの

       

      自分という存在に

      健全な意味を

      与えうるのは

       

      心理カウンセラーでも

      スピリチュアルカウンセラーでも

      精神科医でも

      ブロガーでも

      親や子・・・でもなく

      自分の造り主のみ

       

      今度お札に採用される津田梅子さんは

      少女時代

      米国留学で

      クリスチャンホームで

      生活する中で

      誰から勧められたわけでも

      ありませんでしたが

       

      自ら洗礼を受ける

      決意をしました。

       

      「創造主の存在」を

      当たり前のように確信して

      生きている人々の

      家族関係や

      倫理観、道徳観に

      触れながら

      これだと思ったよう・・・。

       

      自分が愛され赦され

      受け入れられている存在であることを
      主イエスの十字架の身代りの死と復活という

      史実にこめられた意味を

      知ることを通して

       

      健全なセルフイメージを

      回復されることで

      価値観のみならず

      他者との関係性も変えられます。

       

      英語圏では

      イエスキリストに信頼して

      自分の人生を

      お任せする人を

      ボーン・アゲインした

      (生まれ変わった)人と言います。

       

      仏教の輪廻思想では

      死後

      別なものに生まれ変わる?という教えが

      あるようですが

       

      聖書では

      この地上に

      生きていながらにして

      十字架でいのちをささげるほどまで

      自分を愛して死んでよみがえられた方を

      信じるだけで

      生まれ変わる(生まれ変われる)

      そう約束しています。

       

      春分の直後の満月の後に

      来る日曜日のことを

      イースターサンデー(復活祭)

       

      として

      キリスト教圏ではクリスマス以上に

      盛大にお祝いします。

       

      クリスマスだと

      太陽暦で12月25日と決まっているので

      わかりやすいですが

       

      イースターは

      いかんせん太陰暦に基づいて

      決めているため

       

      毎年3月後半から4月後半までを

      行ったり来たりすることもあって

       

      日本ではなかなか

      定着しずらいようですね〜

       

      グッドフライデー(キリストの受難日)

      そして

      イースターサンデー(キリストの復活日)

      セットで心に留めてまいりたいもの


      4:25 主イエスは、

      私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、

      私たちが義と認められるために、

      よみがえられました。

      (新約聖書 ローマ書4:25)

       

      満月をながめながら・・・

       

      満月の光は

      月が自ら発している光ではないなあ

       

      月面を拡大して見れば

      少しも魅力を感じない

      無味乾燥で

      荒涼たるもの

       

      しかしそれでも

      なんで

      あんなに眩しく見えるのか

      それは太陽の光を反射させているから

       

      私たちも

      自分自身の心の表面を

      近づいてよく見るならば

      月面の如く

       

      見るも無残

      荒涼たるもの

       

      しかし主イエスのみ顔を

      仰ぎさえすれば

       

      主の光を

      反射させて魅力的な

      生き方が可能

       


      5:14 あなたがたは世の光です。

      山の上にある町は隠れることができません。
      5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。

      燭台の上に置きます。

      そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
      5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。

      人々があなたがたの良い行いを見て、

      天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

      (新約聖書 マタイの福音書5:14〜16)

       

      がんばりの世界ではなく

      「信」頼して主を「仰」ぐだけでよい世界

      それが

      福音の世界

       

      月が太陽の光を反射させるごとく

      私も主の光を反射させて

      歩みたい

       

      とくに今朝の釧路のように

      曇り空の日は

      そのことを痛切に思います。

       


       私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、

      鏡のように主の栄光を映しつつ、

      栄光から栄光へと、

      主と同じかたちに姿を変えられていきます。

      これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

      (新約聖書 競灰螢鵐硲魁В隠検

       

       

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      「伊勢神宮」に思いをはせて
      0

        天皇皇后陛下最後の地方ご訪問

         

        ・・・・引用ここから(日本経済新聞WEBNEWS  2019.4.17 )・・・・

        天皇、皇后両陛下は17日、

        伊勢神宮参拝のため2泊3日の日程で三重県入りされた。

        18日に外宮(豊受大神宮)と内宮(皇大神宮)を参拝し、

        退位を報告する「神宮に親謁の儀」に臨まれる。30日に退位を控え、

        両陛下にとって今回が在位中最後の地方訪問となる。

        東京駅で安倍晋三首相らの見送りを受けた両陛下は

        新幹線などを乗り継ぎ、

        同日夕に近鉄宇治山田駅(三重県伊勢市)に到着。

        大勢の住民や観光客らの歓迎を受け、

        手を振って応えられた。

        この後、車に乗り換え、

        伊勢神宮の内宮に向かい、

        宿泊所に入られた。

        雨の中、沿道にも多くの人々が集まった。

        今回の訪問では、侍従2人が皇位のしるしとされる

        「三種の神器」のうち剣と璽(じ=まがたま)が入った黒いケースを抱え、

        両陛下の後に続いた。剣璽が皇居外に出る

        「剣璽動座」は2014年3月の伊勢神宮参拝以来、

        約5年ぶり。

        両陛下は18日の儀式で主な日程を終え、

        19日午後に帰京される

        ・・・・引用ここまで・・・・

         

        以前伊勢神宮について

        拙ブログで触れたことがありましたので

        やや編集しなおして

        再掲させていただきます。



        伊勢神宮に訪れたG7首脳の皆さん
        (2016年5月26日)

        伊勢神宮に限らず
        神社の配置図を
        見ていると
        旧約聖書の幕屋を
        連想してしまいます。





        そのほか・・・
        「お神輿」と聖書の「契約の箱」の対比

        伊勢神宮の灯篭の「ダビデの紋章」と
        イスラエルにある「菊の紋章」の由来

        内宮の天照大神と
        外宮の豊受大神の
        意味

        などなど
        色々と想いを馳せられ
        興味は尽きませんが・・・

        G7の皆さんの関心は
        どこにおありだったでしょう・・・


        伊勢神宮で
        どうしても気になることの一つが
        ご神体とされる「
        八咫鏡」についてです。



        (この裏側が気になるわけです・・・。)

        様々な学説や
        神話や言い伝えが錯綜していますが
        最も羅網的にまとめているかなと思える
        良心的なサイトがありましたので
        ご紹介したいと思います。


        http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/zatsugaku/yatanokagami.html


        日本人にとって
        聖書の神様は
        決して
        異国輸入?の

        異質な存在ではなく


        実は、私たちが古来から
        慕い求めてきた身近な存在かも

        調べれば調べるほど
        そんな印象をもちます。

        元社会科教員の悪い癖で
        調べることに
        没頭しそう

        ところで
        今回調べていて
        驚いたことの一つは

        伊勢神宮では
        祭礼の際に必ず「太一」を
        拝むことになっているということ

        「天照大神と豊受大神を
        拝みましょう」では
        ないということ!

        あくまでも
        拝む対象は
        「太一」
        だということ!

        この「太一」とは
        唯一神のこと!

        そういえば
        伊勢神宮には
        目に見える「偶像神」は
        一つも
        像としては
        祭られていません!!!

        「天照大神」とか
        「豊受大神」といっても


        それらに向かって
        参拝者がひれ伏して
        拝んでいない
        ということです。

        日本人の意識には
        実は

        「神」=必ずしも拝む対象ではない
        「唯一の神」=必ず拝むべき対象

        そんな意識が
        あるのではないかと
        思えてきました。

        この点において
        旧約聖書の
        異邦民族が


        バアルの神
        アシェラの神
        ケモシュの神
        モレクの神などの
        像にひれ伏して
        拝んだのとは異なりますし

        新約時代のギリシアローマ時代の
        異邦の民が
        アルテミスの女神などの
        像の前にひれ伏して
        拝んだのとも異なるようです。

        日本人は心底
        八百万の神を
        無造作に
        手あたり次第に
        無節操に
        拝んできた民族かというと
        実はそうではないんじゃないか、と
        思えてきました

        逆説的になりますが


        そもそもたくさんの神々が
        創作され続けているということは


        裏を返すと
        まだ「本物と出会いたくても出会えていない呻き」の
        表れではないでしょうか

        たとえは適切では

        ないかもしれませんが


        ある人が
        本当の「愛の対象」に
        出会いたくて


        恋人をとっかえ
        ひっかえ変えているのと
        ・・似ているかもしれません。

        日本に
        八百万の神が
        あるというのは


        実はどこかで
        それらを超越した
        真の神「太一」

        を求めているしるしなのかも・・・

        本当の神様だけを
        拝みたいと魂の底では
        願っているのではないでしょうか?

        そうでなければ
        どうして
        伊勢神宮で
        「太一」を意識させるのでしょう・・・

        主よ。神々のうちで、あなたに並ぶ者はなく、
        あなたのみわざに比ぶべきものはありません。

        (旧約聖書 詩篇86:8)

        われわれ

        日本人も
        本当は
        こういう聖書の告白を
        真実の神様に
        ささげたがっている

        のではないでしょうか。

        とりあえず
        色々と神々と呼ばれるものは
        あるけれども


        本当に拝むべきお方は
        「唯一の神」だけである


        でもそれが
        どのようなお方か
        今だわからないでいる。

        伊勢神宮の祭礼に
        おける
        太一を拝むという

        儀礼行為の背後には
        そのような喘ぎがあるのではと
        思えてきました。



        (伊勢神宮出の初もうでの様子
        「太一」ののぼりが見えますね)

        伊勢神宮といえば
        神社の上に立つ
        神社とも言われますから

        そこで「太一」
        すなわち
        「唯一の神」だけを
        拝むことを
        勧めているとすれば

        これは
        極めて
        感慨深いもの!!

        我々日本人の先祖たちが
        礼拝の対象として
        真に求めてきた神は


        スケールの小さな

        「日本の神」なんかではなくて


        スケールの大きな全宇宙の神
        唯一の神ではなかったか
        と思わされるのです。

        本来日本民族は
        唯一神への信仰について
        他の民族以上に
        渇きを
        抱いてきたのではないか。



        これは伊勢志摩地方を含む
        様々な地域の
        田植えのお祭りの際に
        立つ「太一」ののぼりです。



        このように
        庶民のお祭り祝日などにも
        「太一」ののぼりが
        あげられる風習が
        今も残っているということは

        「唯一神」を拝もうとする習慣が
        神社レベルだけではなく
        庶民レベルでも
        行われているということです。

        ・・・だとするならば
        聖書を
        通して
        唯一神が太一が
        どのような方かを知らされた人は
        そのことを
        まだ知らされていない同胞に
        伝えていく使命がある
        ということになりますね。

        これこそ
        大切な
        日本宣教のカギの一つ
        かもしれない
        と思わされます。

        過去の日本におけるキリスト宣教において
        外国から来られた宣教師さんたちの
        影響もあって


        「それは違いますよ。
        正しいのはこれですよ。」


        そういう対立的アプローチが
        強調されてきたきらいが
        あります。

        使徒パウロが
        偶像で満ちたアテネの町で
        偶像を見て憤りを覚えながらも


        拝まれている数々の
        偶像をよく観察しながら・・・
        「知られない神に」と
        刻まれた祭壇が
        あるのを見つけた時に
        「これだ!」
        と思い
        「あなたがたが知らずに
        拝んでいるもの、それを
        教えましょう。
        この世界とその中にあるすべてのものを
        お造りになった神は
        天地の主ですから、
        手でこしらえた宮に
        お住みにはなりません。・・・」

        (新約聖書 使徒の働き17:23〜24)
        と話し始められたことを
        心に留める必要があるかもしれません。

        日本のキリスト者は
        神社仏閣などを
        訝しがって
        毛嫌いして
        遠ざかるばかりでなく
        もっと
        パウロがアテネの人々に
        あなたがたの拝むものを
        よく見ているうちに
        」(17:23)
        と言ったように
        つまり
        人々が拝んでいた対象を
        よく観察していたように

        どこかに宣教のヒントが
        隠されてあるかもしれないという
        宣教愛を抱きながら

        「よく観察させていただく」ことも
        大切ではないかと
        改めて思わされました。

        あくまでも
        唯一の神を
        知っていただくための
        宣教愛という動機から・・・

        この国の民が
        主イエスキリストを通して
        先祖が慕い求めてきた
        真の神、太一に立ちかえることが
        できますように・・・

        聖書の神様
        真の太一を
        ご紹介すべく
        奮起させられる想いが
        与えられ
        感謝です!

        というのは、

        多くの神々や、多くの主があるとされているように、
        たとえ、神々と呼ばれるものが
        天にも地にもあったとしても、
         私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、
        この神からすべてのものは発し、
        この神に私たちは至るからです。
        また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、
        この主によってすべてのものは存在し、
        この主によって私たちも存在するからです。

        (新約聖書 1コリント8:5〜6)


         

         

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        「魚は欠かせない」
        0

          2019.4.12

          妻がパートで居ない場合

          昼食は自炊

           

          この日は

          麦の入ったお米

           

          毎月刑務所に

          行きますが

          「ムショ」の語源は

          「ケイムショ」ではなくて

          刑務所の前身である監獄で

          囚人の方々が

          食べる穀物の

          麦と米の配合比率が

          6(ム):4(シ)で

          あることから「ムシ」寄せ場から

          通称「ムショ」と呼ばれるように

          なったそう(異説あり:江戸時代「虫寄せ場」)

           

          健康的には

          白米だけよりも

          良いよう・・・

           

          味噌汁の具は

          玉ねぎと

          わかめ(釧路の岩見浜海岸産)

          いわし

          若鶏の胸肉と

          キャベツ、人参、ニンニク炒め

          魚は極力毎日

          食べるようにしています。

           

          魚の缶詰は

          緊急時以外は

          避けるようになりました。

           

          魚は

          地元産のものを

          年中食べられるのは

          何といっても恵み!

           

          こんな素晴らしい釧路市

          ここ一か月間で

          1000人の人口減になったとは

          信じがたい事実

           

          二十数年前に

          札幌から

          釧路にくる際

           

          周囲から

          「え?釧路行くの?

          あんな魚臭い町に行くの?」

          と言われたものですが、

           

          日本列島が

          海に囲まれているということは

          創造主が

          魚のたんぱく質の恵みを

          備えてくださっているということで

           

          その魚を食べられることは

          極めて幸せなこと

           

          数年前

          二男坊が生活していた

          神奈川県横浜市

          とある魚屋さんの店頭に立った時

          ああ、横浜の方々は

          こういう魚を食べておられるのか・・・と

           

          最近

           

          ほとんど

          和食の選択

           

          来週4月21日(日)はイースター

          キリストの復活をお祝いする日

           

          主イエスが肉体をもって

          よみがえられたことを

          弟子たちも初めは信じられず

          「幽霊か」と思ったようですが

          主イエスは

          そんな弟子たちに

          焼き魚を取って食べる様子を

          見せて

          確かに肉体をもって復活されたことを

          信じられるように

          御配慮下さいました。

           

           

          「焼き魚」食べるたびに

          復活の主イエスを

          思い出させていただけるなんて

          ああ、なんて幸せでしょう。

           


          24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。

          まさしくわたしです。わたしにさわって、

          よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。

          見て分かるように、わたしにはあります。」
          24:40 こう言って、

          イエスは彼らに手と足を見せられた。
          24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、

          不思議がっていたので、

          イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
          24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
          24:43 イエスはそれを取って、

          彼らの前で召し上がった。

          (新約聖書 ルカの福音書24:39〜43)

           

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          「そして、オリジナル」
          0

             

            久々に

            東京から来釧された友人と

            ランチを共にすることになり

             

            友人に

            リクエストをお聞きしましたら、

            このお店のことを伺いました

             

            私は釧路に30年以上

            居住しながらも

            このお店の存在を

            存じ上げず

            初めての来店に

            心弾ませました。

             

            ランチタイムは

            お客さんが

            多くいらっしゃいました。

             

            メニューは実に豊富でしたが

            選ぶのにさほど時間を要しませんでした

             

            私が注文させていただいたのは

             

             

            「コスモポリタン」

             

            ミートソース味で

            鶏肉となすの風味が

            絶妙で

            パスタはまろやか系

            美味しかったです。

             

            この店のオリジナルメニューの

            一つだそうです。

             

            お店のご主人に伺うと

            27年間

            お店を開かれておられるとのこと

             

            かつて

            釧路の

            スパゲティで有名な某老舗店さんで

            修行を積んでから

             

            やがて

            独立して

             

            オリジナルメニューを生み出して・・・

             

             

            奥様と共に

            長年

            お客さんに笑顔で仕えて

            おられます。

             

            メニューは

            実に豊富!

             

            私たちが訪れた時間帯

            お客さんは

            男性さんが

            多かったよう

             

             

            型を学ぶ下積みの時期

            自らの足で歩み始める独立の時期

            オリジナルを生み出す時期

             

            どんな人生でも

            3の時期と言うステップが

            あるのかもしれません。

             

            私たちも
            学ぶべきときに

            学ぶべき「型」をみっちりと学び

             

            自らの足場を整えつつ

             

            やがて

            自分色に輝けると

            幸いですね〜

             

            他人の色や

            世間の色に染まることなく

            自分色を

            見つけたらそれを

            大切にしたいもの

             

            「自分の人生を生きているなあ」って

            手ごたえを感じられる人は

            パスタ屋さんに限らず

            幸せ感が大きいことでしょう〜

             

            たとえば

            世間ではうらやましがられるような

            高収入の仕事をしていても

            それが「親の期待にこたえるための仕事」ならば

            自分の人生を生きている感は乏しく

             

            親から強いられた(期待された)人生を

            歩まされている感を覚えて

            重圧の人生

            むなしい人生なの

            かもしれません。

             

            逆に、周囲から「大変じゃない?」

            と思われたとしても

            本人が

            「これこそ、私自らの意思で選んだ私の人生だ!」

            と思える人は

            充実した人生と思えるかも。

             

            「自分の人生」という

            キャンバス


            筆をとるのは主イエス

            パレットの中の

            私色が用いられて

            何が描かれるか・・・

            楽しみ

             

            今の時代

            猫も杓子も老舗店へ

            向かう必要もなく

             

            食べログで高評価店へ

            通う必要もなく

             

            大きな老舗店の

            良さもありますが

             

            オリジナリティーをもった

            こじんまりとした

            お店の良さも

             

            私にとっては

            こじんまりとしたお店の良さは

             

            何といっても

            調理されている方との

            物理的

            かつ心理的

            距離感が近く感じられ

            コミュニケーションできること

             

            美味しい時に

            「おしかったです」と

            調理された方に

            直接言えて

            調理人の方の反応も

            うかがえるあたりは

            良いところかと思います。

             

            そうすると

            調理される方も

            やりがい感をもてて

            励まされるのでは

            ないかと思うのです。

             

            大きなお店で

            アンケート用紙に

            「感想をお書きください」

            とありますが

             

            「書き言葉」では

            いかんせん

            新鮮な思いが

            伝わりずらいもの

             

            教会も似ているかもしれません。

            教会がどでかくなればなるほど

            人と人との距離感が広がりやすく

            なりがち

             

            日本では

            コンビニサイズの教会が

            どんどん分散的に

            拡散されていくことが

            必要かなと思います。

             

            徒歩で通える距離に

            教会が

            あるのが理想的かなあと

            思います。

             

            コミュニケーションが

            密にとれる仕組みは

            大切

             

            友人で

            街の中でセコマで働いた経験のある方が

            僻地のセコマで働き始めて

            少しして

             

            お客さんから

            「いつもと同じやつちょうだい」と言われて

            「ああ、なんてお客さんとの距離感が

            近いんだろう」という感想を

            伺ったことを思い出します。

             

            これからは

            オリジナリティーが

            尊ばれる時代かな

             

            創造主が賜る

            自分と言うブランドこそ

            初々しく感じる時代かも

             

            今回一緒にランチを食した

            東京の友人は

             

            その後

            セコマさんで

            北海道のオリジナル商品を

            いくつかお買い求めに

            なられていました。

             

            個性が埋没しがちな現代

             

            主が与えたもう

            自分らしさが

            職場や学校、地域で

            大いに発揮されて

            創造主が与えたもう

            オリジナリティーが

            尊ばれるそんな釧路に

            なりますように。


            このように、

            ほかの人が据えた土台の上に

            建てないように、

            キリストの名がまだ語られていない場所に

            福音を宣べ伝えることを、

            私は切に求めているのです。
            (新約聖書ローマ書15:20)

             

             

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