「鞭(むち)の慰め」
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    「山形先生、お久しぶりです。Aです。

    先生、お元気ですか?」

     

    「やあ、Aさんしばらくぶり!

    どう調子?」

     

    「はい、何とか・・・。

    先生の声をお聞きしたくなって

    お電話しました。

    お忙しいところ

    すみません。」

     

    「いやあ、それは

    ありがとう。

    Aさんの声を聞けて嬉しいよ。」

     

    「それは、ありがとうございます。

    先生のために

    お祈りさせていただいています。

    福音館のセルグループの祝福のために

    お祈りさせていただいています。」

     

    Aさんは

    病院の神経科の病棟の

    公衆電話から

     

    数か月に一度

    お電話を

    くださっていました。

     

    Aさんは

    私どもの教会のメンバーでは

    ありませんでしたが、

     

    よく小さき私のために

    お祈り下さっていました。

     

    と・・・過去形で

    このことばを

    遣わなければならなくなった今

    とても寂しさを覚えています。

     

    Aさんが

    お亡くなりに

    なられたことを知って

    ショックを受けました。

     

    病院から

    一時退院を

    認められて

    帰宅中の

    ことでした・・・。

     

    Aさんとの

    最初の出会いは

    今からさかのぼること

    十数年前

     

    私が

    とある神経科病棟に

    入院中のBさんの所に

    訪問中

     

    デイルームでBさんに

    聖書のお話をしていた時

     

    Aさんがやってこられて

    「すみません、

    そばで一緒に話を聞いていてもいいでしょうか?」

    そう尋ねて

    傍らでじーっと

    私とBさんの対話を

    聞いていたAさん

     

     

    確かあの時、旧約聖書

    詩篇23篇の説明中でした

     

    羊飼いである主が

    むちと杖をもたれている

     

    「あなたの鞭(むち)とあなたの杖

    それが私の慰めです。」

     

    という聖句

     

    なぜ主の「鞭(むち)」が

    慰めとなりえるのか

     

    羊飼いがもつ「鞭」は

    羊を打つための鞭ではなくて

     

    羊に襲いかかる獣を

    け散らし

    追い払うための鞭

     

    また、真っ暗闇の中で

    羊飼いが

    どこにいるのか

    わからずに

    心細く思う羊に対して

     

    「ここにいるよ」

    「そばにいるよ」

    ということを

    知らせるために

    羊飼いが

    地面をたたくための鞭

    であること

    などを

     

    お話しさせて

    いただいていた時

     

    そばで聞いていた

    Aさんは

    驚かれて

    興奮しながら

    感動を覚えて下さったのです。

     

    それまで

    聖書の詩篇23篇を

    繰り返し

    読まれていたAさんは

    羊飼いなる主が手にする鞭は、

     

    てっきり

    羊を懲らしめるための

     

    てっきり

    羊を痛めつけるための

    叱責の鞭

     

    そう理解されていたのです。

     

    長年、主なる神様に対して

    すぐ怒る、おっかないイメージを

    抱いていたことを

    打ち明けてくれました。

     

     

    Aさんが

    生い立ちの中で

    出会った権威者は

     

    どうも

    極めて

    厳格であったようで

     

    その人と

    重なり合うように

    その人の延長線上に

    主なる神様を置いて

    見てしまっていた

    ようです。

     

    この時まで

     

    Aさんは

    神様は

    いつも鞭をもって

    自分を叱りつける

    厳格で厳しいお方に違いない

     

    そういうゆがんだ

    偽りの神様イメージを

    抱き続けていたのでした。

     

    しかし、Aさんは

    この時以来

    イエス様という

    主なる神様に対するイメージが

    変えられました。

     

    やさしくて

    憐れみ深いお方

    怒るのに遅くて

    恵み深いお方

    というふうに

    聖書通りに

    一新されたとのことでした。

     

     

    そして、この後、

    私が神経科病棟のデイルームで

    他の人と話している姿を

    見つけるやいなや

     

    Aさんは

    いつも決まって

    傍らに来ては

    「そばで聞いていてもいいですか?」

     

    と言っては

    じーっと聖書の話に熱心に

    耳を傾けてくれるのでした。

     

    あるとき

    Aさんの病室の友Cさんが

    お亡くなり(急死)

    になられた時のこと

     

    Aさんは

    まっさきに病棟の

    公衆電話から

     

    「山形先生、さきほど

    Cさんが亡くなりました。」

     

    と知らせてくれました。

     

    Aさんの通報のおかげで

    私はCさんの葬儀に

    間に合っただけでなく

     

    この葬儀に参列したことが

    きっかけで

     

    Cさんのご兄弟ご夫妻が

    主イエスを信じて

    救われて

    バプテスマを受けられ

    クリスチャンになられたのです。

     

    主イエスは、

    Aさんのお電話を用いて

    Cさんの弟さんご夫妻を

    間接的に

    救いへと導かれたのです。

     

    私は

    どれほどAさんに

    助けられたかわかりません。

    どれほどAさんに祈られたか

    わかりません。

     

    牧師の私が

    Aさんのために祈る時間よりも

    はるかに多くの時間を、

     

    Aさんは私のために

    真剣に祈るために時間と労を割いて

    支えてくれたと思います。

     

    Aさんは天に

    多くの宝を積まれた

    主のしもべであると

    信じています

     

    私よりも

    年齢が若いAさん

     

    人生の大半を

    病棟で過ごされたAさん

     

    ああ、せめて

     

    もう一度Aさんと

    一緒に祈り合い、

    語り合う時を

    持ちたかったです。

     

    主イエスを信じて

    平安と喜びをもちながら

    同時に生きる苦しさと

    必死に

    毎日対峙もされていたAさん

     

    Aさんの訃報を知ったのは

    Aさんの葬儀を終えた4日後の

    一昨日

     

    せめて

    葬儀で

    ご遺族の前でも

    泣きたかった・・・

     

    せめて

    葬儀でご身内の方に

    どれほどAさんに

    自分自身が助けられたか

     

    お伝えしたかった・・・

     

    どんなに苦しい病の中でも

    決して主への信頼を

    失わなかったAさん

     

    今は主にあって

    真の安息に憩っておられるAさん

     

     

    天国が

    今まで以上に

    また身近に

    なりました。

     

    Aさんという信仰の友との出逢いを

    賜った主イエス様に心からの感謝を

    ささげます。

     

    「神は彼らの眼から

    涙をことごとくぬぐい取って下さる。

    もはや死はなく、

    悲しみも、

    叫び声も、

    苦しみもない。

    以前のものが過ぎ去ったからである。」

    (ヨハネの黙示録21:4)

     

    主は私の羊飼い

    私は乏しいことがありません。

    主は私を緑の牧場に伏させ

    憩いの水のみぎわにともなわれます。

    主は私の魂を生き返らせ

    御名のゆえに

    私を義の道に導かれます。

    たとえ死の陰の谷を歩むとしても

    私は災いを恐れません。

     

     

    あなたが共におられますから。

    あなたのむちとあなたの杖それが

    私の慰めです。

    (旧約聖書 詩篇23:1〜4)

     

     

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    天の「満腹弁当」
    0

      コンビニ弁当「雅御膳」

      高貴な響きの

      名前のお弁当

       

      6つの区分に

      仕切られた空間が

      嬉しい

       

      そそっかしい私

      梅干しを、お豆と勘違いし

      種までかじって

      ガキッという感触に

      一瞬うろたえながらも

      美味しく完食

       

      昨日

      釧路市民文化会館にて

      平成29年度 北海道道東ブロック

      更生保護研究大会

       

      地元の保護司会では

      役割分担をし

      奉仕を分かち合いました。

       

      私は、6名の弁当係の一人

      弁当の仕分け

      来賓席にお届け

      ゴミの整理

      分別

      初顔合わせの面々でありながらも

      絶妙のチームワーク

       

      奉仕の合間に

      他の分区の先輩方と

      とてもよい交流ができて

      感謝でした。

       

      裏方の奉仕で

      研究大会そのものには

      参加できませんでしたが

      先輩保護司さんから

      様々な、とてもためになる

      体験談を伺うことができたことは

      私にとって

      願ってもみなかった祝福

      神様からのご褒美

       

      さすがに「保護司」さんだけあって

      皆さん

      奉仕のスピリットに

      あふれておられる方々

       

      すてきな異業種交流の場とも

      なりました。

       

      お弁当をお配りしながら

       

      聖書の中で

       

      主イエスが

      男だけでも

      5000人を数える

      老若男女に

      5つのパンと二匹の魚を

      祝福し

      弟子たちに

      配らせるシーンを

      思い出しました。

       

      バイブルの記述によれば

      すべての人が

      満腹で満たされ

      なおかつ

      12のかごに

      余りがありました。

       

       

      今回の弁当配布でも

      余りが予想以上に

      ありました。

       

      (前回は、足りない、という

      声が出てしまった

      そうで・・・

       

      表彰者や

      来賓などのVIPから

      お手伝いの方や

      われわれ奉仕者に至るまで

       

      皆、同じ種類のお弁当と

      同じ種類のお飲み物が

      配られたことは

       

      当たり前のこととは言え

      とても心温まる思い

      がいたしました。

       

      主イエスは

      信じるすべての人に対して

       

      えこひいきすることなく

      差別することなく

       

      誰にでも

      同じ味で同じ分量の

      「天国のお弁当」を

      平等にお配りして下さいます。

       

      名付けて

      「天の満腹弁当」

       

       

      1味目:罪の赦し

       

      2味目:永遠の命

       

      3味目:体のよみがえり

       

      コンビニの雅御膳が

      6区分されていたように

       

      天国の満腹弁当の残り

      3味は・・・

       

      喜び平安

       

      6味すべて

      味わえるなんて

      わあ、なんて

      贅沢なお弁当でしょう!

       

      さあ、6味

      どれから

      味あわせて

      いただきましょうか?

       

      人々はみな、食べて満腹した。

      そして、パン切れの余りを取り集めると、

      十二のかごにいっぱいあった。

      (新約聖書 マタイの福音書14:20)

       

       

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      「赦してくれ」
      0

         

        Aさんから

        代筆で手紙を書いてほしいと

        頼まれました。

         

        Aさんは

        ご高齢(90代)で

        眼がご不自由で

        手もご不自由に

        なられました。

         

        そのお手紙は

        わずか数行ですが

        再三「赦してくれ」という文言が

        ありました。

         

        長い間、

        音信が途絶えてしまっている

        わが子への手紙

         

        そんな大切な手紙の

        代筆を

         

        それでなくても

        血縁関係もなければ

        おまけに筆不精な自分が

        書かせていただくと言うことは

         

        あまりにも

        荷が重く感じられました。

         

        それでも

        何とかこの手紙を通して

         

        Aさんのお心が

        お子さんのお心に伝わって

        和解と赦しが

        実現できますように

         

        祈る思いで

        一字一字

        筆ペンで

        書かせていただきました。

         

        この釧路の街には

        高齢者だけの世帯が

        多くなってきています。

         

        気になるのは

         

        遠方におられる

        お子さんだけでなく

        同じ釧路におられる

        お子さんでさえも

         

        実家に行くことが

        様々なご事情で困難

         

        そんなケースが

        少なくないことが

        最近わかってきたこと

         

        親子の和解を

        必要とされておられる方々が

        「赦し」「赦され」

         

        平和な関係を

        築き上げることができるようにと

        祈らされます。

         

        人は赦さなくても

        赦されなくても

        心と体を弱めてしまいます。

         

         

         

        人は赦さない状態、

        もしくは

        赦されない状態が続くことで

        脳の海馬が縮小するそうで

         

        それに伴い

        上のイラストのように

        様々な身体症状が

        出てきてしまうようです

         

        親子間の平和こそ

        世界の平和の礎

        そう思うこのごろ

         

        私たち人間の罪を背負って

        十字架にかかられた救い主

        イエスキリストは

        十字架上で

        「父よ。彼らをおゆるし下さい。

        彼らは、自分が何をしているのかが

        分かっていないのです。」

        (新約聖書 ルカの福音書23:34)

         

        と、とりなしのお祈りを

        ささげてくださいました。

         

        私自身、自分自身が何をしているのかが

        わからずに

        どれほど

        神様に対して

        また人に対して

        罪、あやまちを

        犯してきたことでしょう。

         

        自分で

        償い切ることができないのが

        自分の罪

         

        しかし、その罪を

        すべて償いきるために

        十字架で

        身代わりに

        刑罰を受けて

        死んでよみがえってくださった

        主イエスのいのちがけの犠牲愛

         

        愛は、

        すべてのそむきを覆う

        (旧約聖書 箴言10:12)

         

        自分の罪がどれほど

        大きいかを

        知ることと

         

        その罪を赦して下さる

        主イエスの赦しの愛が

        どれほど大きいかを

        知ることとは

         

        正比例の関係

         

        そして、同時に

        赦される喜びとも

        比例関係

         

        赦される喜びを

        味わうことは

        他者を受け入れ、赦すことの

        動機づけとなっていくようです。

         

        今、赦せなくて、苦しんでおられる方の上に

        今、赦してもらえずに、苦しんでおられる方の上に

        等しく主イエスの

        無限の赦しの愛が

        上から

        注がれますように!

         

         

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        「小児科病棟」
        0

          釧路市内の某総合病院

          小児科病棟に

          入院中の

          幼児Aくんの

          病室を

          妻とたずねました。

           

          Aくんは

          すやすや寝息を立てて

          眠っていました。

           

          さぞかし

          長い痛みの後で

          とても疲れていた

          ことでしょう。

           

          横のベッドで

          一晩共にされたAくんのお母様も

          お疲れのご様子

           

          熱もようやく下がり

          検査の結果を聞いて

          安心されたお母さん

           

          Aくんの腕には

          点滴の針が刺されていました。

           

          点滴棒にかけられていた

          薬の袋から

          ゆっくりとしたスピードで

          落ちる点滴のしずくを

          見ながら

           

          息子たちが

          幼少のころ

          喘息や肺炎などで

          入退院を繰り返していた頃を

          思い出しました。

           

          点滴の落ちるスピードが

          早く感じられると

          「こんなに早いと息子の心臓に

          負担がかかるのではないか?」

          と案じたかと思えば

           

          逆に遅く感じられると

          「こんなに遅いと

          相当時間がかかるのではないか?」

          と案じたり

           

          点滴スピードを

          見ては一喜一憂していたあの頃の

          思い出がよみがえってきました。

           

          我が子の細い腕に

          点滴の針が

          刺さっている姿を見るのは

          親として

          とても辛いものが

          ありました。

           

          とくに

          点滴の針をさす時

           

          親の眼から

          離されたところに

          息子が連れていかれ

          カーテンが閉められ

           

          息子が

          自分の眼の届かないところで

          針が刺される瞬間

          ギャーと

          泣き叫ぶ声が

          耳に入る時

           

           

          あの辛さは

          二度と味わいたく

          ありません。

           

          そんな時

          決まって

          思い浮かべるのは

           

          罪なき神のひとり子

          主イエスの十字架シーン

           

          私の罪を背負い

          十字架に横たえられ

           

          私の罪の身代わりに

          父なる神からの聖なる

          裁きを受けるべく

          釘づけられるシーン

           

          太くて長い釘が

          ハンマーでたたかれながら

          主イエスの

          両手両足に

          くいこんでいく時の

          絶叫の叫びを

           

          天の父なる神様は

          どれほど

          壮絶な痛み悲しみで

          お聞きになり

          ご覧になられたことか

           

          想像を超える

          「父なる神の痛み」が

          そこには

          あったことでしょう。

           

          十字架上で

          のどの渇きを覚えた主イエスが

           

          「わたしはかわく」

          と語られたときの

          父なる神の思い

           

          息子が幼少のころ

          ある真夜中

          発作を起こし

          熱を出し

          のどのかわきを

          おぼえ

           

          お水が飲みたくて

          「おぴちゅ」と

           

          渾身の力をこめ

          か細い声で

          発したことばを聞いた時

           

          胸が

          張り裂けそうになって

          世界中の水を

          タンクで

          運び込みたい衝動にかられました。

           

          あの時の「おぴちゅ」という

          言葉の響きは

          深く強く私の記憶に

          とどまっています。

           

          愛するひとり子を

          十字架につけるほどまでに

          人類を

          そして

          私のことを

          滅びから

          救いたいと願われた

          父なる神のあまりにも大きすぎる愛

           

          筆舌に尽くしたいものが

          あります。

           

          子をもつ親とされてから

          聖書を読む際の

          味わい方は

           

          神学校で学んでいた

          独身時代よりも

          はるかに深くされているなあと

          思わされます。・・・・

           

           

          Aくんは途中で

          ちょっとだけ

          眼をさましました。

           

          お母さんが、私を指さし

          「この人、だあれ?」と尋ねると

           

          寝ぼけまなこで

           

          「ヤマガタ ボクシ・・・」

           

          そう微笑みながら

          言ったかと思うと

           

          再び

          瞼が閉じて

          寝息を立ててすやすやと

          眠りにつきました。

           

          看護学校の生徒さんが

          画用紙でつくった冠を

          届けてくれました。

           

          入院しているひとりひとりの

          こどもたちの

          頭の寸法を

          あらかじめ

          測ったそうです。

           

          やさしいお医者さんや

          看護師さんたちに

          たくさん

          やさしくされることで

           

          入院生活が

          痛くて辛いことばかりではなく

          楽しいこともある

          ということを

          体験できるといいですね。

           

          しかし、イエスは言われた。

          「こどもたちを来させなさい。

          わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。

          天の御国はこのような者たちのものなのです。」

          そして手を子どもたちの上に置いてから、

          そこを去って行かれた。

          (マタイの福音書19:14)

           

           

          Aくんが

          元気になって退院して

          再び

          教会の中を

          ぐるぐる笑顔で

          歩き回る姿を見ることを

          楽しみにしています。

           

          わたしの願いは

           

          もし許されたら

           

          希望される親子さんに

           

          紙芝居で

          イエス様の

          お話をさせていただき

           

          イエス様がされたように

          手を置いて

          イエス様のお名前で

          お祈りさせていただくことです。

           

          もしご希望される方が

          おられましたら

          ご遠慮なく

          ご相談ください

          (0154−91−5729)

           

           

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          「与えよ、取れよ」
          0

             

             

             

            93歳のAさん

            玄関口に

            膝を真っ二つに

            折り曲げて

            正座をされ

             

            恭しく

            お辞儀をしながら

            もったいないほどに、

            礼を尽くしてくださいました。

             

            「私の娘も

            民生委員を

            しておりますの。」

             

             

            Aさんは

            一昨日

            体調を崩され

            腹部の痛みを覚え

            救急ボタンを押し

            病院に搬送され

             

            点滴治療を受けられた

            ばかり

            そのよわよわしい

            お体であるにも

            かかわらず

            凛とした

            姿勢で

            玄関に正座されておられるので

            大変恐縮してしまいました。

             

            お一人暮らし

            家の隅々に

            手すりが

             

            おトイレに

            行かれる際も

            すべて伝え歩き

             

            デイサービスへは

            行けません。

            (いつ、ふらついて倒れるか

            わからないので。)

             

            満足な体操はできません。

            (手を上げると

            血圧が上昇したり

            ふらつくので。)

             

            それでも
            1日1日を精一杯

            感謝の笑顔で

            生きておられるAさんの

            お姿に感銘を受けました。

             

            民生委員となって

            初めて行う

            赤い羽根共同募金の戸別訪問を通して

            多くの方々との

            接点が与えられ

             

            多くのことを

            教えられています。

             

            ところで

            共同募金の歴史について

            書かれた

            パンフレットを見ていて

            驚きました!

             

            共同募金の起こり・・・

            それは、そもそも

            聖書が原点、

             

            そして牧師が起点!!!

             

            昔、スイスの山深い村の一人の牧師が

            「与えよ、取れよ」と

            書いた箱を

            教会の近くの道端の樫の木に

            つるしておいたそうです。

             

            生活に困っている人や病人、

            老人を助けるために考案したものでした。

             

            通りがかった人の中で

            多少とも余裕のある人は

            その箱の中に

            自発的にいくらかの

            お金を入れ、

             

            困っている人は

            小箱の中から必要だけのお金を引き出して

            役立てたと言うことです。

             


             

            この牧師に与えられた着想

            −協働で助けあう心ーが

            現在の赤い羽根共同募金運動に

            受け継がれていったようです。

             

            私は、きっと

            その牧師さんは

            次の聖句を念頭に

            置かれていたのではないかと

            思いました。

             

            私は、他の人々には楽をさせ、

            あなたがたには苦労させようとしているのではなく、

            むしろ平等になるように図っています。

             

            今あなた方のゆとりが彼らの不足を補うことは、

            いずれ彼らのゆとりが

            あなたがたの不足を補うことになり、

            そのようにして平等になるのです。

             

            「たくさん集めた人にも余ることはなく、

            少しだけ集めた人にも

            足りないことはなかった」と

            書いてある通りです。

            (新約聖書 競灰螢鵐判顳検В隠魁腺隠機

             

             

            さらに

            日本においては

            戦後、

            国内の戦災孤児、

            及び中国、満州からの引き上げ孤児の救済策

            をどうするかという難題に

            直面していました。

             

            GHQの総司令官

            ダグラスマッカーサーは

             

            孤児救済の助言を請うために

            当時、米国ネブラスカ州で

            少年の自立更生支援活動

            に従事していた

            フラナガン神父を

            招聘しました。

             

             

            フラナガン神父は

            救済活動の一貫として1947年

            長崎、佐賀、福岡で

            募金活動を呼び掛けたのが

            日本における赤い羽根共同募金運動の起こり

            と言われています。

            (児童養護施設を訪ねる神父)

             

             

            このようにして

            「赤い羽根共同募金運動」の

            歴史をたどっていくと

             

            聖書のことばにたどり着くようです。

            「隣人をあなた自身のように愛しなさい」

            この聖句に

            揺り動かされた

             

            一人の牧師さんの実践と

            一人の神父さんの実践

             

            時と場所を

            越えて

            タスキをつなぐようにして

            組み合わされて

            かたちになったもの

             

            それが今日の

            赤い羽根共同募金として

             

            全国民の間に広がる

            ムーブメントへと

            発展したのですね。

             

            聖書の価値観に立った行動がもたらす

            影響力は

            測り知れません。

             

             

             

            普遍的な価値観だからこそ

            世界に広がったのですね。

             

            ところで
             

            赤色以外の共同募金も

            色々あるようですね。

             

            緑の羽根は

            自然環境保護のためのものであることは

            聞いたことがありますが、

             

            青い羽根募金
            海難救助のボランティア活動を援助する募金。

            日本水難協会が実施している。

             

            水色の羽根募金
            海難遺児(沈んでしまった漁船に乗っていた漁師さんの子供)

            育英資金の為の募金。

            漁船海難遺児育英会が実施している。

             

            黄色い羽根募金
            腎臓移植推のための募金。

            石川県腎友会が実施している。

            また、募金ではないが交通安全運動の一環として

            黄色い羽根を配布している県もある。

             

            白い羽根募金
            日本赤十字社の活動である施設慰問や

            災害救助のための資金として使われる募金。

            1947年〜1955年までで終わっているものの、

            一部ではまだ行われている。

             

            黒い羽根募金
            炭鉱失業者救済のための募金。

            主に福岡県の主婦たちが

            主体となって取り組んでいった。

            主に1959年〜1960年にかけて行われており、

            最近は行われることはない。

             

             

            神様は、

            人が一人きりで生きるように

            造られなかったことを

            改めて

            覚えさせられます。

             

            教会の牧師が、

            赤い羽根の共同募金の

            お願いに

            訪問して歩くと言うのは、

             

            果たして

            どんなものかなあと

            当初、頭をよぎったのですが

             

            もとをたどると、

            教会の牧師の発想が

            起点となっていたとは・・

             

            まだまだ知らないことが

            多い55歳です。

             

            「任意」「匿名」「信頼」

             

            この3原則が堅持されることが

            本来の「共同募金」の心のはず

             

            しかし

            今日の募金のありかたは

            果たしてそうなっているかどうか・・・

             

             

            絶えず自己吟味が

            必要に思われます。

             

            主イエスのことば

            「あなたが施しをするときは、

            右の手がしていることを

            左の手に知られないようにしなさい。

            あなたの施しが、

            隠れたところに

            あるようにするためです。

            そうすれば、

            隠れたところで見ておられる

            あなたの父が、

            あなたに報いて下さいます。

            (新約聖書 マタイの福音書6:3〜4)

             

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